2009年4月11日土曜日

:パピルスの巻紙


● 2008/06[****]



 ドロヴェッテイ・コレクション(注:イタリア トリノ)を研究する公式の許可状も届き、シャンポリオンの夢がついにかなえられた。

 彼は想像をはるかにこえた、驚くべきドロヴェッテイ・コレクションの第一印象をこう記した。
 「この国の言葉で言うとこうなります。 Questo e cosa stupenda! (何とすばらしいものだろう!)」

 部屋には、緑や黒、薔薇色の、きれいに磨かれた御影石の巨大な彫刻がならんでいたが、これらの彫刻の碑文よりすばらしいのは、膨大なパピルスのコレクションだった。
 これらのコレクションにざっと目を通しているうちに、たいへんな代仕事が待ち構えていることに彼は気づいた。
 大量のテキストは、簡単に解読できそうなものばかりだった。

 それらのテキストは、未知の王や奇妙な葬儀、外交文書、古代エジプト人の手紙などについて彼に語りかけてきた。
 手紙などは、彼が家族や友人に書くものと少しも変わりなかった。

 彼はテキストを読むことのできる唯一の人間であり、そこに記されて情報を役立てるためには翻訳しなければならなかったが、しかし、同時に、解読法を他の人々に教え、なによりも、できるだけ広く利用されるように、彼の最新の方法と研究成果を公表する必要もあった。

 コレクションを目にした興奮がおさまると、彼はただちにテキストの徹底的な調査を開始した。
 この段階ではシャンポリオンはロゼッタストーンの碑文をあまり利用していなかった。
 ロゼッタストーンが重要なのは、そこにヒエログリフを含む3つの言語が併記されているからである。
 このことが解読の手がかりになるものと考えられ、ヒエログリフの新たな研究の刺激剤となった。
 実際にはロゼッタストーンのテキストは、使用に限度があった。
 というのは、シャンポリオンが「ダシェ氏への書簡」で指摘したように、そのヒエログリフはだいぶ破損していたからである(注:写真でみるようにヒエログリフの部分が大はばに欠けている)。
 「ロゼッタストーンのヒエログリフは、それほどこの研究には役立たなかった。というのは、その破片から読み取れたのはプトレマイオスの名前一つだけだったからである」
 ロゼッタストーンは解読志願者の注目の的となり、その碑文は寄せられた期待に応えることはできなかったものの、いまだに一般によく知られたシンボルとなっている。
 しかし、解読の手がかりを与えるものとして、これよりはるかに重要なのは、他の碑文やパピルスだった。

 シャンポリオンはコレクションのエジプトの美術品に記された碑文の解読にとりかかり、30以上のファラオの実際の像と名前を発見した。いまや文字通り名前と顔とを突き合わせることができたシャンポリオンは、それまで考えられていたように、エジプト美術は決まりきった形式のものだけではないことに気づいた。
 ファラオを様式化して表現しているものもあったが、なかには社術的な肖像のようなものもあった。
 彼はハッと気がついた。
 彫像を通して、数千年前、エジプトを支配していた人々と対面していることを。
 彫像の短い碑文でさえ、想像を超えるようなことを語り、歴史的資料として、エジプト美術はギリシャ人やローマ人のどのような作品よりも有用であることを示していた。

 エジプト人に

(シェフェドウ---パピルスの巻紙)として知られているパピルスは、かってエジプトの湿地帯の淀んだ浅い水辺に繁茂していたカミガヤツリからつくられた一種の紙である。
 この水草はサンダルやカゴから川舟まで様々なものを作るのに利用され、紙をつくるには茎が使われた。
 刈り取ってから、茎をある長さに切り、外側の皮や筋を剥く。
 茎の芯をさらに短く切断し、あるいは薄く裂き、並べて敷きつめる。
 その上に直角に細長い薄片を同じように敷きつめ、上から押したり叩いたりすう。
 乾燥すれば、植物に含まれる自然の接着剤によって細長い薄片は結合される。
 こうして現代の筆記用紙よりやや厚い「パピルス紙」が出来上がり、文字などを書くために使われる。

 多くの目的のために書記は

(メンヘドウ---書記のパレット)と呼ばれる基本的な道具一式使う。
 ペンは葦でつくられ、その先端は細く裂かれ、ペン先というより毛筆のような形をしている。
 黒と赤のインクが一般的な筆記に使われるが、テキスト内に図を描くためには他の色のインクが使われた。
 インクは固形物としてつくられ、ふつう木製の長方形のパレットの窪みに収められていた。
 書記はインクを液体としては使わず、葦のペンを水に浸してから、インクの固まりにこすりつける。
 便宜上、パピルスは巻かれ、紐で縛って封印される。
 巻物はふつう木箱や陶製の壺に保管され、幾巻きものパピルスに書かれた物語のような長いテキストは、専用の箱や壺に収められた。

 それらの多くが、来世における死者の生存を願う呪文(今では「死者の書」として知られる呪文)であることがわかったが、その中にボロボロになった墓の設計図が一枚あった。
 古代エジプトの墓の設計図はきわめて稀だった。
 これは現存するものではもっとも詳しい王の墓の設計図で、1/28の縮尺で描かれていた。
 「エジプト誌」(注:ナポレオン遠征隊によって出版されたもの)にあった王家の谷の図版と比較して、シャンポリオンは、それはラメセス四世の墓の設計図だと考えた。
 しかし、なぜかのちにラメセス六世のものと報告書には記された。

 パピルスがこのような悲惨な状態になったのは、輸送中の扱い方のためだった。
 エジプトの気候のもとではパピルスはひじょうに耐久力があった。
 もっとも古いものは約五千年前のものである。
 しかし、不適切な取り扱いと湿気のため、もろいパピルスはたちまちボロボロにんってしまう。
 砕けやすいパピルスを広げることも難問で、未知の内容を秘めたパピルスの多くは、それを広げる新しい技術が開発されるまで、「巻かれたまま博物館に保存」されている。

 これらのボロボロになった数千の資料の残骸の中に、彼は、胸をおどらせるような興味深い破片のいくつかを発見した。
 彼が「王表」と名づけた、全部で50の手稿を見つけ出したのである。
 これは現在「トリノの王表」として知られているが、そのパピルスにはラメセス二世(紀元前1279---1213)の時代までの、エジプトの支配者の名前が列挙されていた。
 ドロヴェッテイが最初にそれを入手したとき、パピルスはほとんど完全な形をしていて、約三百人のエジプトの支配者の名前が記されていたが、エジプトからイタリアに運ばれるあいだに破損し、その一部が失われた。
 そのパピルスには、ふつうは他のリストから徐儀される外国の支配者の名前だけでなく、各支配者の正確な在位期間も記録されていた。
 エジプトの初期の歴史を解明し、年代を確定するためには王のリストは絶対不可欠なものであるとシャンポリオンは考えたが、徹底的な調査にも関わらず、パピルスの一部は見つからず、リストには空白が残った。
 その空白のひとつひとつに彼はため息をもらし、その打ちのめされた気持ちをジャック=ジョセフに伝えた。
 「このような手稿をかくも悲惨な状態で目にするというのは、ぼくの学者人生における最大の失望だと言っていいでしょう。自分を慰めるすべを知りません。この傷は長いあいだ痛みつづけるでしょう」 



● パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書:[Wikipedia]より


● パピルスの草(カミガヤツリ)


注].「トリノの王表」は、Wikipediaでは「トリノ王名表 Turin King List」と記載されている。



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