2009年4月4日土曜日
:斉・管夷吾(管仲)
● 2008/03[****]
『
管仲が活躍した時代には、道教も儒教もなかった。
ただし、管仲は「法家」の祖といわれるように、法についての意識が世にさきがけて濃厚であり、善悪是非を峻別する法が、じつは、道なき道を「道」とする道教の思想から生じているように思われる。
「仁」を思想の核とし、仁を表現するために「礼」をさだめた儒教からは、法の思想は生じない。
すなわち、管仲には道教の思想が内在していたとみてよく、のちに管仲の言行と思想を解説する「菅子」という書物がうまれるが、その中に「兵法」がふくまれているのもうなずける。
「一つとしておなじ戦争がないのが戦争」
という認識から兵法は起ち上がってくるのである。
斉一国を治めるだけなら高渓(注:サンズイではなくニンベンであるが、辞書にない)と鮑叔で充分であるが、諸侯を率いる覇者になりたいのなら、管仲がいなければ不可能である。
その言は「史記」にあるが、至言といえるであろう。
貧困のときの友情を富貴になっても変わらぬことを「管鮑の交わり」といって世人はたたえることになるが、その友情の内容は深すい(注:スイの字は辞書にない)である。
管仲は桓公を殺そうとした者である。
その者を桓公は赦しただけでなく、執政者とした。
この桓公の度量の巨きさに天下は驚愕し、感心した。
管仲を国政の中央に推した鮑叔は歴史の舞台からおりた。
この行蔵(こうぞう)のみごとさも、後世、賞賛されることになる。
管仲は鮑叔の進言にあった通り、桓公を覇者にした。
彼の思想の基本は、
「およそ国を治むるの道は、まず先に民を富ます [管子]」
というものであった。
その点、貧しくても楽しく暮らす道がある、と個人に哲理を開示した儒教とはだいぶ違う。
貧困が秩序の紊乱をまねき、犯罪をうむ。
為政者がまず為すべきことは「どう国を治めるか」ではなくて、「どう国民を富ますか」であり、国民が富めば、おのずと治世はなる。
「管子」の没頭には、
倉りん実つれば、すなわち礼節を知り、衣食足れば、すなわち栄辱を知る。
という有名な文があるが、管仲の思想には、国民から税をとらないという「無税論」があったことに驚嘆すべきである。
ちなみに天下の盟主となった桓公は、周王にかわって天子となり、封禅(天と山川を祭る)を行おうとした。
それを諫止したのも管仲である。
管仲のおかげで覇者となった桓公であったが、管仲のせいで天王になれなかった。
のちに孔子は、管仲の人として
「器は小さく、礼も知らぬ」
と、きわめてきびしく批判したが、桓公の封禅をとめた管仲が礼を知らなかったといえるであろうか。
「小器で無礼」とは、天を恐れぬ者をいうのである。
』
● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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