2009年4月9日木曜日
:エジプトの大地
● 2008/06[****]
● 時間の起源
『
1798年6月末、ナポレオンのエジプト遠征隊は、四百隻の船に分乗した38,000人の部隊からなり、----150人以上のフランス学士院会員が参加した。
アレクサンドロスの偉業をこえることを夢見ていたナポレオンにとって、学者たちをエジプトに連れてきたのは単なる思いつきにすぎなかったが、そのような思いつきがなければ、ヒエログリフはいまだに解読されていなかったかもしれない。
墓や神殿の壁に記された数千点ものヒエログリフをたずさえて、学者たちがエジプトから帰還するや、ヒエログリフ解読の関心は再燃した。
これほど大量の研究資料がもたらされたのははじめてのことで、その収集には艱難辛苦の3年間を要した。
それはまたフランスにおけるエジプト熱のはじまりでもあった。
学者たちがオベリスク(クレオパトラの針)で目にしたヒエログリフの碑文に記されていたのは、大部分が「カルトウーシュ(訳注:国王、神の名が書かれている楕円形の枠)」でかこまれた次のような名前である。
これは、「太陽神ラーの息子にして、アメン神に愛でられしラメセス」という意味である。
しかし、ほとんどファラオの名前や敬称しか記されていない。
そのような献辞碑文はあまり一般的なものでないことを学者たちは知らなかった。
というのは、彼らは、1500年以上も前にローマ人がエジプトから略奪したオベリスクやその他の記念像などの刻まれたこの種のヒエログリフしか見たことがなかったからである。
彼らが古代エジプト遺跡のすばらしさを発見するのは、それから数ヶ月後のことであった。
ローマ支配化で、ヒエログリフはしだいに使用されなくなり、キリスト供の台頭とともに、異教徒の寺院やそれと結びついたヒエログリフの碑文は禁止された。
394年8月24日、上エジプトのアスワン近く、フィラエ島の神殿の門に記されたヒエログリフの碑文がその最後のものである。
● エジプト古跡地図
ヒエログリフを読めるものはますます小数となり、たとえば
といった簡単な碑文も、シャンポリオンによって解読されるまで読むことはできなかった。
ナポレオンが上エジプトを研究するために委員会をつくったその日に、ヒエログリフを解読する決め手となるものの一つがロゼッタで発見された。
一団の兵士が、フランス軍によってジュリアン要塞と名を改められた、荒れ果てたラシッド要塞を補強しているときのことだった。
その要塞はロゼッタの北西数キロのところにあった。
崩れかけた壁を取り壊しているとき、片面に碑文のある暗緑色の石板を発見した。
調べたところ3つの異なった文字できされてた3つの碑文であることがわかった。
その一つがギリシャ語であることはわかった。
もう一つはヒエログリフで、残りは未知の文字であった。
ギリシャ語の碑文を訳すと、紀元前204年から180年までエジプトを支配したプトレマイオス5世エピファネスを讃える、紀元前196年3月27日という日付のある、神官の布告であることがわかった。
3つの碑文は同一の内容を3つの文字で記したものであって、ヒエログリフ解読の鍵になるものと思われた。
高さ1.2メートル、重さ3/4トンもあるこの大きな石はカイロに運ばれた。
石碑がカイロに届くや、学者たちはその碑文の正確な複製をつくる方法を検討し、さまざまな拓本や模写、鋳型がつくられた。
学者たちはヒエログリフ解読の突破口になるもの期待を寄せた。
しかし、その期待は早すぎた。
ヒエログリフが解読されるまでに、23年の歳月と涙ぐましい努力が必要でだった。
学者たちはラシッド要塞で発見された石を「ロゼッタストーン」と呼ぶようになり、やがて世界でもっとも有名な遺物のひとつとなった。
ナポレオンがエジプトを去ると、イギリス軍とエジプトからのフランス軍の撤兵について交渉、合意が成立し、協定が調印された。
出航できたのはそれから18カ月後のことであり、その間、イギリスとの交渉がつづき、それは学者たちの所持品にまで及び、----結局、学者たちはすべての記録と大部分の収集品を持ち帰ってよいことになったが、しかし、イギリス側は貴重なロゼッタストーンをはじめ、重要なものを没収した。
1802年2月、ロゼッタストーンはアレクサンドリア港でフランス軍から没収され、ポーツマスに到着した。
そこからロンドンの古物協会に移され、オックスフォード、ケンブリッジ、エンジバラ、トリニテイ・カレッジ、ダブリンの各大学のために石膏模型が作られ、またヨーロッパ中の学術団体に配布するために図版が作成された。
図版は、1801年3月から1803年5月までの英仏休戦期間中にパリの国立図書館にも配布された。
ロゼッタストーンそのものは最終的に、1802年末、大英博物館に保管されたが、ギリシャ語とデモテイク文字とヒエログリフのテキストの図版が古物協会から出版されたのは1815年のことだった。
』
● ロゼッタストーン [Wikipedia]より
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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