● 2008/03[****]
『
孫武は「孫子」という中国で最高の兵法書の著者として、あまりにも有名であるが、その生涯は霧塞といってよい。
かれの小伝は「史記」の「孫子呉起列伝」にある。
とはいえ、「春秋左氏伝」では、孫武の影も形もない。
したがって孫武の事跡をたどろうとすると、「史記」以外に道はない。
「呉越春秋」は「史記」よりはるかに遅い後漢時代の成立である。
それゆえ「史記」の文を注意深くみてゆくことにしたい。
<孫子武は斉人なり>
これが没頭の文である。
孫子は呉人ではなく、出身は斉であったという。
斉にいた孫武はどのような事由があって呉に来たのであろうか。
<兵法を以って呉王こうりょ(注:辞書にない文字、以下"呉王"とする)に見ゆ>
と「史記」にある。
孫武が呉王に謁見したのは「呉越春秋」によると伍子胥の推薦による、とある。
晴耕雨読の生活を続けていた伍子胥がどのように孫武を知ったのか。
兵法家として少し名が知られはじめていた孫武を訪ねた伍子胥訪ねたは、その著書を読んで驚嘆し、自身が呉王に仕えるや、すぐに使者を立てて、まずその著書を呉王に読んでもらい、ついでに孫武を推挙したのであろう。
私見としては、孫武は伍子胥が呉王の臣下になるまで、斉にいたとみる。
現代人が手にすることができる「孫子」も十三篇でなっている。
その十三篇は孫武自身が書いたものではあるまい、と想ったほうがよい。
「漢書」の「芸文志(げいもんし)」では82篇と記されている。
間違いないとおもわれることは、司馬遷がみた「孫子」は十三篇であり、その数を孫武の小伝を書くときに使ったにちがいない。
では、なぜ13篇が82篇になったのか。
まず13篇を読み解くうちに細分化されて82篇になったことが考えられる。
次に後世の人の註が原文に付着して区別がつけられなくなり、篇の数が増えたこともありうる。
その雑駁とした文を整理して。十三篇に作り変えたのが、後漢末の「曹操」である。
それが「魏武注孫子」であり、いまの「孫子」の祖にあたる。
それはそれとして、司馬遷が伝承を採取し、史料を検考したとき、呉王が読んだのはまさしく十三篇であり、司馬遷の添補ではないということもある。
「歴史を学ぶ」ということは、疑問からはじめるよりも、信ずるということを基礎に置いたほうがよい。
人文の世界は、巨大な疑惑の塊のようにも見えるが、純粋に信ずるということが核にあるものなのである。
人は疑うと弱くなり、信ずると強くなる。
呉王”こうりょ”が亡くなると、孫武は斉に帰ったのではあるまいか。
孫武の子孫は、おそらく兵法を家学としたはずで、その伝統のなかに「孫臏」という天才が出現する。
孫臏の出身地は斉の最西端といってよく衛に近い。
そこに孫武が落ち着いて、子孫もそこからうごかなかった、ということも考えられる。
さて、いまの「孫子」の十三篇の中で、もっとも玄妙な思想をたたえているのが「虚実篇」である。
「
兵を形(あらわ)すの極は無形に至る。
<中略>
其の戦いに勝つや、復(くりかえ)さずして、形に無窮に応ず
」
軍の形で最良なるものはとは、「形が無い」ということである。
戦いの勝ち方に二度と同じであるものはなく、相手に応じて無限に変化するのである。
宇宙の原則を「礼」という形で「体現を繰り返えそうとする儒教」に、兵法が入り込む余地がないことがよくわかる。
戦いに長じている人は、人と同じことをし難い性質を持ち、繰り返すことが苦手であるから、平治の世は生き難く、ややもすると低能者とみなされる。
それでもこの世を戦場とみなし、人はそれぞれ独自の生き方をし、二度と同じ生き方は無いという想念に立てば、「孫子」の兵法は、現代でも活用されうるのである。
● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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