2009年4月7日火曜日
戦国名臣列伝:序:宮城谷昌光
● 2008/04[****]
『
春秋という時代をどこまでにするかによって、戦国時代の開始が異なる。
諸説あるなかで、私は周の敬王44年(紀元前476年)を春秋時代の末年とし、当然のことながら、その翌年、すなわち周の元王元年(前475年)を「戦国時代初年」とする。
むろんその頃生きていた人びとが、昨日まで春秋時代で、今日から戦国時代であるという意識はなかったであろう。
時代の区分は後世の者の便宜である。
春秋も戦国も東周王朝期であるという言い方をすると、その末年にズレが生じる。
つまり紀元前222年に秦王政(始皇帝)は燕と趙を滅ぼし、翌前221年から秦王朝が始まったことになる。
ところが、戦国時代は東周王朝期の別称であるとみなすと、その終わりは周の"たん王”(注・辞書にない)の没年と同じで紀元前256年であり、戦国時代の終わりよりも34年も早い。
実は"たん王"の没年の次ぎの年から秦王朝期が始まっているとみたほうがよいと私は思っているのえであるが、それを書くと、
<秦王朝は紀元前221年からです>
と、必ず訂正される。
くどいようであるが、「春秋」と「戦国」は王朝名ではない。
さて「戦国七雄」といって、
「秦、魏、韓、趙、楚、燕、斉」
という七国が戦国時代の大国であり、これらの国がまったくかかわりをもたぬ事件や戦争は、歴史の外へ掃きだされてた。
歴史とはそういうものだろう。
春秋時代にあった国で重要さをもたぬ小国を除くと、次ぎの15国が記憶されているはずである。
「周、魯、斉、晋、秦、楚、宋、鄭、衛、曹、陳、蔡、燕、呉、越」
それがどうして七国のなったか、というのが時代の内容である。
内容は各国の内政と外交、それに軍事にかかわることになるので、一概にはいえないが、外観をわかりやすくするため、諸国の興亡表を作ってみる。
ことわっておくが「史記」の記述は戦国時代に限ってみだれが大きく、信憑性に欠ける。
<表略>
時代的な外観をいえば、戦国時代を前・中・後とわければ、
前期は「魏」の全盛であり、魏王は天子きどりであった。
中期は斉・秦の「二大王朝」並立期といってよく、合従連横(衡)のため権謀作術がさかんに行われた。
後期は秦の限りない拡大があり、各国の滅亡に伴う悲哀の色に満ちている。
夏(か)から始まる中国の王朝期の最後の清(しん)までみても、本当に自由な発想が許されたのは、この東周後期、すなわち戦国時代においてのみである。
人々は宗教と教学のきはんからのがれて、何を考えてもよく、どう行動してもよかったのである。
中国にあって奇跡的な時代とは、戦国時代のことであり、空前絶後であるといっても過言ではない。
貴族や富人の家には、床暖房や水洗トイレまで完備し、国には、軍事用とはいえ、高速道路が走っていた。
女性が化粧するようになったのも、この時代からであり、黛をつかっての眉の描き方も現代人と違わない。
燭台の豪華さは、いまのシャンデリアとかわらない。
斉の国都である臨淄の人口は60万以上であり、紀元前のその頃に、それほどの人口をもった都市が、アジアで、いや全世界のどこにあったというのか。
まさに、中国の戦国時代はどう熱の時代であった。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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