● 2008/03[****]
『
魯の孔丘が孔子とよばれるように、斉の晏嬰は晏子とよばれて、いまだに尊崇されている。
斉では管仲とならぶ最高の名臣である。
斉の隣国の魯で生まれた孔子は、晏子より21年おくれて亡くなったのであるが、儒教集団のなかでも、晏子の思想、礼法、進退、生活などが討論の対象となった。
孔子自身は晏子の人格を認めたが、その礼法や生活を批判した。
孔子が亡くなったあとに、弟子の曾子は、
「晏子は礼を知っていたと謂うことができる。恭敬の心があった」
と、いった。
曾子は孔子より46歳年下で、孔子の晩年の弟子であるはずなのだが、どういわけか晏子との逸話がある。儒教の教団のなかには晏子を認めないという気分があったのに、曾子だけは晏子を認めたので、曾子と晏子を接合する説話がのちに創られたのかもしれない。
教団の気分を代表する人は有若である。
この人は体貌が孔子に肖ていたので、孔子の死後、弟子たちは有若を立てて師とした。
「論語」を注意深く読むと、「子」、すなわち先生とよばれているのは、孔子のほかは曾子と有子(有若)がいるのみである。
そうなると「論語」は、その二人にを師とする弟子たちによって形成されたとみてよい。
晏子は生前から吝嗇な人とみなされ、太夫が先祖を祀るときには、牛と羊を供えるのに、晏子は豚の肩の肉を豆(とう)という小さな器に持っても、山盛りにはせず、洗濯した衣冠で朝廷にのぼった。
それについて孔子は
「賢い太夫であっても、あのように吝嗇では、臣下は仕えにくかろうよ」
と、批判した。
孔子の理念は「礼」によって具現化される。
その礼の世界こそ、人がもっとも住みやすい世界と信じたからである。
別の見方をすれば、国家そのものを古代にあった素朴な形体にもどしてしまうという主張は、常に現実に逆らうものであり、非現実的であり、ゆえに革命的である。
孔子が求道者であったとすれば、晏子は認識者である。
魯の内乱を嫌って出国した孔子が斉にきて景公に仕えようとしたことがある。
景公は孔子に田土を与えて召抱えようとした。
ところが、晏子がそれをさまたげた。
その発言が「史記」の「孔子世家」にある。
晏子の儒教批判である。
この批判があり、孔子の仕官をさまたげたので、晏子は孔子の弟子の多くに反感をもたれたのであろう。
「
儒者は滑稽である、というのは、知恵があって巧言をもって人の判断を誤らせる、ということです。
ゆえにその思想を規範とすることはできません。
おごり傲(あなど)り、他人の意見をきかないので、下の身分に置くことができません。
服喪を尊重して、死者を悼んで哀しみ抜き、破産するほど葬儀を立派にします。
それを我が国の慣わしとするわけにはいきません。
儒者は諸国を遊説し、財物を乞い借りたりします。
そのような者にに国を治めさせることはできません。
天下を治めるほどの賢人が歿してのち、周王室はすでに衰え、礼楽が欠けてから久しくなります。
今、孔子は容儀を美しくみせ、身を盛んに飾って、階段を登降する礼や、宮中を歩行する節を細かく定めています。
何代かかっても、その学を究めることはできないでしょう。
いますぐにその礼を究めることは難しいというものです。
君が孔子とその礼を用いて斉の慣わしを革(あらた)めようとなさるのは、細民の先頭に立って善い政治を行うことにはなりますまい。
」
晏子はそういったのであるが、なるほど、儒教とは独善的であり、他者をすべて否定し、現実をも否定するので、宗教の一つであるといえる。
晏子を特徴づけるのは
「社稷の臣」
ということである。
臣下は君主に仕えるのではなく、国家に仕えるものであるという思想がそこにある。
たとえば「晏子春秋」のなかにこういう説話がある。
「
臣下の意見が採用されていれば、----臣下が君主のために死ぬことはありません。
もしも意見が採用されず、君主の困難に殉じて死ねば、それはムダ死にです。
ゆえに、本当の忠臣とは、善言を君主に献じて実行してもらい、君主とともに困難におちいらない者をいうのです。
」
これを読んだ者は感心すると同時に、おもわず噴き出したくなるだろう。
「晏子春秋」は、晏子の言行録にはちがいないが、政治を主題とした説話集といってよく、あえていえば小説に類するものである。
その書物の成立がいつであるかは定かでない。
むろん著者もわからない。
が、これほど諧謔をもった説話は外になく、よほどの文藻をもった者が書いたのであろう。
戦国時代には成立していたであろうから、
<紀元前の書物で、これほど愉しいものはない>
と、私は断言することができる。
すでに日本では漢文の時代は終わっているが、それでも漢文を学ぼうとすると、「論語」、「孟子」、「荀子」などの儒教の聖典といってよいものと「老子」、「荘子」などの道教の奥義書に等しいものを読まされる。
いきなりそれらを読んで愉しいものか、と私には常に疑問がある。
「晏子春秋」のほうが、はるかに愉しいではないか。
』
● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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