2009年4月15日水曜日

本業:あとがき 「たけし!」:水道橋博士


● 2008/03[****]









 一冊の本を書き終えた。
 タレントがタレント本のみを書評したタレント本は、日本で最初の試みではないだろうか。
 編集部からの要請は、「書評家の書かないような、著者との交流、ご自身の体験談を入れて欲しい」とのことであった。
 必然的に、お会いした事のある著者の本が並んだ。
 その数、39冊。
 つまり大半は俺と面識のあるタレントの本なのである。
 だからこそ、書評というより、交遊録や人物評、俺字恣意への自己言及が再三なのもその理由による。
 
 50冊(注:ボーナストラックとして11冊追加されている)の中、師匠・ビートたけしについて触れた数は、17冊もある。
 「あとがき」で取り上げる一冊もビートたけし著-----。
 「たけし!」である。
 本書は漫才ブームの全盛期、2081年に出版された、語り下ろしのビートたけしの自叙伝である。



 「人生に期待するな
 と本書に書かれた最後の一行を読み終えると、俺はまるで天からの啓示のように、この人の下へ行こうと決心した。
 その瞬間すら憶えている。

 この「たけし」の下へ行けば、全てが変わる!
 その日から、受験勉強も始めた。
 そして、大学受験の上京はその口実であった。
 そして予定通り、大学は4日、取得単位ゼロで辞めた。
 それでも優柔不断な俺は、弟子入りするには4年間の長い逡巡があった。
 そして、23歳のとき、多くの仲間が進路を決めた時、弟子志願を試み、たけし軍団に潜り込み、親になんの相談もなく、いつの間にか、「浅草フランス座」のストリップ小屋に住み込んでいた。

 事情を知った、田舎の両親は慌てて、二人して、俺を連れ戻しに来た。
 浅草のホテルに長逗留し、
 「
子どもを返せ!
 と、まるで後に社会問題化したオウム信者の親御さんのような風情でフランス座へ通い寄った。
 劇場でエレベーターボーイをしながら、客の呼び込みをしていた俺は、両親の姿を見ると、屋上に駆け上がり、顔を合わせようともしなかった。
 それでも、親元に戻らなかった俺を母は長い間、
 「
たけしに子どもをさらわれた
 と、言っていたそうだ。

 そりゃそうだろう。
 20年も前のたけし軍団は、昔のイメージのサーカスと変わっていなかった。
 その後、10年間は、実家とは音信不通だった。
 親にしてみれば、勘当ものであったのだろう。

 しかし、18年後、俺に子どもが生まれ、「たけし」と名づけ、田舎へ連れ帰ったとき-----。
 「たけしに、子どもをさらわれたと思ったら、たけしを孫にして戻ってきた」
 と母は言った。






「序」にこうある。

 「タレント本とは何か?」
 今回は、「日経」風にズバリ定義させていただく。

 と。
 それから、長い文が続いて、序が終わってしまった。
 「ウー、どこに"ズバリ定義"があったのだ?」

 もういちど読み返してみる。
 最後のほうにらしき文がある。
 どうもこれらしい。

 よって、タレント本とは、「膨大で払いきれない有名税に対するタレント本人による青色申告書」であり、自ら世間から換算して欲しい、自分への価値そのものなのだ。

 でも、いくら読んでも分からない。
 社会科学系専門書の翻訳文献によくある、逐語訳に似ている。
 短い文なので、難しくはないはずだが。
 半導体チップの取り扱いマニアルと同じ。
 確かに正しいらしいのだが、一語一語に説明をつけ読み込み続けないと、ぼよよーんとして頭に入ってこない。
 

 これが世にいう「日経風定義」?。
 えらく難しそうに易しいものを書き換え、内容をそのぶん高尚味にさせて、何となく分かったような、頭がよくなったような雰囲気に誘うテクニック。
 ところで青色申告は私の知っている限りでは、過去5年間(注:調べてみたら最近は3年に変わっている)に赤字があったら、今期の利益から相殺できるというものでなかったか。
 これが、どうからむのだろう。
 それとも、ただ単にタレントとは家族事業であるということを青色申告で強調しているのだろうか。
 



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