2009年4月3日金曜日
春秋名臣列伝:序:宮城谷昌光
● 2008/03[****]
『
中国の春秋時代とは、いつからいつまでであろうか。
じつは諸説ある。
が、妥当であるとおもわれることを先に言えば、それは紀元前770年から紀元前476年までである。
では、なぜそれが妥当であるのか、多少の解説が要るであろう。
中国史に明るい人にとっては、余計なことになるが、中国の王朝は、夏からはじまり、商(殷)、周、秦、漢、魏(三国)とつづく。
漢には西漢(前漢)と東漢(後漢)があり、その両王朝の間に短期ではあるが、新、という王朝があった。
中国史に暗い人でもそのくらいは理解していよう。
日本人は、秦と日本の弥生時代を比並し、さらに「後漢書」の「東夷列伝」には、日本は倭(わ)とよばれて、
倭は韓(馬韓・辰韓・弁韓)の東南、大海の中にあり。
山島に依りて居(すまい)を為(つく)る。
およそ百余国なり。
(中略)
その大倭王は邪馬台国に居す。
という記事があるので、両漢王朝を横目でみながら、古代の日本を想像することができた。
ところで邪馬台国は「やまたいこく」「やばたいこく」「やまとこく」「やまいつこく」などの読み方があるので、ここではこれと断定しない。
さて、秦のまえのの周の王朝となると、日本の縄文時代にあたり、そこにはどうしても入ってゆけない人があるらしい。
想像が空爆としてしまうのであろう。
が、よくよく考えてみると、そういう人は日本史にこだわりすぎているから、周の時代がわからないのではなく、じつは縄文時代がしっかりとつかめないので、比定しようがないということではあるまいか。
日本史を忘れて、他国の歴史に裸で飛び込むのが、怖いのである。
が、周の時代は、日本的な思考を活かしやすい社会と国家の構造があり、それゆえに、その時代に生まれた思想が、日本人の思想の根幹に接ぎ木されも、枯死しなかった。
では、周王朝に入っていきたい。
<略>
周(東周)時代の初頭には無数の国があったといってよい。
各国には史官がいて、自国の歴史を記したにちがいない。
それは年代記であり、たぶん「史記」とよばれた。
のちの司馬遷だけが史記を書いたわけではないのである。
前述した東方の魯にも「魯春秋」とよばれる史記があった。
やがて魯の国に生まれた孔子が、その年代記に手を加えた。
新訂の「魯春秋」が、『春秋』とよばれる中国最古の年代記である。
他の国の指揮がなぜ残らなかったのか、あるいは、地中におさめられて発掘されないままであるのか、それは不明である。
さて、「春秋」の記事の最初は、魯の隠公元年(前722年)であり、最後は魯の哀公14年(前481年)であるから、242年史といってよい。
ただし、孔子の門人が哀公15年と16年を追記したので、244年史ともいえよう。
哀公16年が孔子の死去の年である。
したがって、東周時代の前722年から前481年、あるいは前479年までを春秋時代と呼ぶ、というのが正しいような気がするが、魯国の歴史をもって中国全土の諸国を包含するのは偏奇がある、という異論が出たに違いなく、
<魯君ではなく、周王を中心にすべきである>
というのが歴史家の正論であろうから、隠公が生きていたときの周王は平王であったことから、平王の初年を春秋時代の初めとし、哀公のときの周王である敬王の末年を春秋時代の終わりとして、論争を収斂したのであろう。
それゆえ、春秋時代に関心をもった場合、「周王」と「魯君」を頭にいれておくと便利である。
例えば研究書などに「桓五」と書かれてあれば、それは必ず「魯・桓公五年」であり、「周・桓王五年」ではない。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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