2009年4月17日金曜日

:小林よしのり「新・ゴーマニズム宣言」


● 2008/03[****]



 この作品を、果たしてタレント本と呼んでいいものかは疑問だ。
 しかし、著書が、スターであることの知名度に便乗するものとすれば、
小林よしのりは、今や日本のみならず様々な意味合いで「アジアの大スター」である。



 小林氏は、日本の読者にとっては、大ヒットギャグ漫画
 「
東大一直線
 「
おぼっちゃまくん
 の生みの親で、「
よしりん」の愛称で親しまれているギャグ漫画家であるが、その一方では、あの「ゴーマニズム宣言」に端を発し、次々と「右曲がりのダンデイー」な思想漫画をベストセラーとする言論人である。

 それだけではない。
 今や、物議を醸す「新しい歴史教科書」の執筆者の一人であり、台湾体制擁護のマンガ「台湾論」を書きながらも、台湾人口の15%を占める支配層、中国統一派から、台湾入境禁止まで申し渡された
 
国際的要注意人物
であり、最新作「戦争論」では、中国では軍国主義扇動家として「
臭名」と非難されるほどの悪名で呼ばれている、日本人ヒール(悪玉)なのである。

 テレビ界に身を置いていると、
 「小林よしのりの本が面白い」
 「ゴーマニズムを読んでいる」
 と語るのも、ある種の
タブーであり、その話題だけで確実に一癖ある面倒くさいタレントだとおもわれがちだ。
 それどころか、無用な議論、論争に巻き込まれる可能性もある。
 もしかしたら、小林氏の天敵である、テレビ朝日や朝日新聞からは、未来永劫、お仕事の以来がこなくなりそうな危惧さえ感じる(皮肉にも、かってテレビ朝日では「おぼっちゃまくん」が放映されていたくらいなのに-----)。
 
 小林よしのりは、マンガ界の中で、予定調和な物語世界を飛び出し、現実の思想、社会、歴史、政治などの問題に切り込み、「過激すぎる」挑発をくり返し、世間を巻き込み、
 「ゴーマンかましてもよかですか?
 と、大見得を切る。
 語り口はますます激化し、問題作「戦争論」を経た今、もはや退路を断った特攻隊状態である。

 作品に登場する多くの論客は、小林氏を際立たせるためのザコにしか描かれないが、もともと小林よしのりが主人公の物語なのだから、夜郎自大に自画絶賛するのは、このマンガの基本設定である。
 たとえ論壇の中でどれほど叩かれようとも、自らのマンガの中では、プロレスのベビーフェース(善玉)であり、リングの上でヒール(悪玉)と対峙し、四方の観客を意識しつつ、自らのヒーロー性、独善性を見せ続ける役回りなのである。

 かって小林氏はマンガで「坂本弁護士事件」の犯人を追い、オウム真理教を告発し、教団からVXガスで暗殺されかけ、また薬害エイズ訴訟では、書斎を飛び出し国と闘った。
 自ら広げた物語に巻き込まれ、汚名すらを着せながら、さらに、より強大な敵、更なる物語へと無謀にも立ち向かっていく。

 「ゴー宣」も「新・ゴー宣」と装いを変えて、10巻目を超え、「台湾論」「新しい教科書」「戦争論1,2」と、その内容はアジアを巻き込む、国際問題まで飛び火した。
 


 確かに、小林氏はベストセラー作家ではあるが、印税生活での悠々自適、人も羨む気楽な稼業とは程遠い、飛んで火に入る「しんどい」作業の続く、過酷な労働者としかいいようがない。
 しかし、昨今、この戦線が広がれば広がるほど、小林よしのり氏は「語りにくい人」となっている。
 一歩踏み間違えれば泥沼に落ちかねない、イデオロギーの世界。
 小林よしのり氏は、「政治」や「思想」そのものをバランスバーとして鷲づかみし、むしろ平衡をとるより、右寄りに突き差しながらも、この危うい綱渡りを止めようとしない。

 日本人の歴史観を「自虐」と罵りながらも、作品には笑いをちりばめ「自ギャグ」化する、小林氏の「芸」と「技」のある漫画家の力量を認識しているのであろう。
 このように書いていても、俺には、いまだに「小林よしのり論争」に巻き込まれたくない気分があり、”やっかい”を背負いたくないと無意識に防衛本能は働く。
 さらに、論点すべてに諸手をあげて賛成ではない。
 (2001年10月号より)


 その後、小林よしのり氏は、「9・11テロ」を受け、大作「戦争論2」を発表。
 イラク戦争ではアメリカ追従の言論人を批判。
 また昨今、かって火花を散らした論客との共闘なども目立ち、時代の変化を如実に感じさせられる。
 ネットには、「若年層の歴史観を見直させる一方、同時にただ感化されただけの単純なナショナリストを大量に製造することから、「目覚まし時計のベル」(効き目は大きいが、いつまでも聞いているようなものでもない)と、揶揄されることもある。」
 確かに、それも小林氏の功罪の一つであろう。
 されども、「
永遠の長き眠り」の方が、俺には確実に、より惰眠であり、より怠慢だと思えるのだが。



● 東大一直線


● おぼっちゃまくん


 私はこの本にリストされている50冊のうち、一冊も読んだことがない。
 50人の著者のうち、名前を聞いて顔を思い浮かべられるのは、数えてみたら16人しかいない。
 ビートたけしを加えると、51人のうち17人になる。
 ちょうど1/3である。
 さらに言えば、この著者の「浅草キッド・水道橋博士」なる人物も知らない。
 その名さえ今回はじめて聞いた。
 上の16人の著書のうち、その内容を目にした本がある。
 それが「ゴーマニズム宣言」
 雑誌SAPIOを読んでいてその中で、このマンガを見た。
 だが、それも2,3回のこと。
 とりたてて過激だとも思わなかったが。
 といっても、初期のころでさほどでもなかったのかもしれない。
 海外に長く暮らして分かることは、各々の政府とはその国民の利益を目の前に見据えて動いている、ということである。
 当たり前のことだがそれが信条であり、国益ともいわれる。

 靖国神社参拝を中国や韓国が叩くのは、それが国益に叶うからであり、別に正しい歴史認識があるわけではない。
 「正しい歴史」なるものは、もともと存在しない。
 歴史に「正しさ」などはない。
 見る立場でどうにでもなる。
 日本領事館に石を投げ込まれ、それを阻止しようとしない警察官は国に命令されているだけ。
 それをまた受けて、一辺の抗議だけやって問題化しないのは日本の国益にかなうからである。
 「中国や韓国がいかに反日的か」
 をアオり、いかにこれらの国が日本が国是としている民主主義に外れており、法治手段に劣っているか、粗暴なワガママな駄々っ子であるかを国民に知らしめる宣伝に、日本政府が利用しているだけ。
 秩序を知らない連中とやりあってもムダなこと、と国民に訴えかけている。
 日本民族がいかに理性的で品性に富み、平和を好む国民であるかを、ウラモードで宣伝しているということである。

 「内交・外交」とはそういうもの。
 日本の知識人なるものは、その日本政府の外交の掌の上で、本人が知らずのうちに踊らされている、と見たほうが分かりやすい。
 海外から見るとそう見える。
 日本の外交を軟弱とマスコミはアジテートするが、どうしてどうして「日本外交は世界一流」とみても決して間違いではない。
 でなければ、東洋の一片の島国たる日本がこれほどに世界で大きな存在にはならない。 
 日本というコップの中で右往左往するものと、それを外から見るとでは、非常な乖離があるということでもある。

 最近では、あの北朝鮮の「ミサイル発射の誤報」。
 まさにあれほど、「外交的にヒット」したのはあるまい。
 私はおそらく政府上層部が意識的に誤報を操作したのではないかと思っている。
 もし、私が有能な政治家であったなら、この期に乗じて朝飯前に「あのくらいはやりかねない」と思うからである。
 意識的に世界に向かって、こういう問題については「日本は過剰に反応しますよ」、とアピールさせたもの。
 「日本は過剰に反応しますから注意してください」、というメッセージを世界に送ったもの。
 やんわりと、「誤報:ミス」というソフトタッチの形をとって。
 日本は誤報という「恥をさらした」と言った機関があったが、とんでもないこと、外交にはウラがある。
 「誤報:ミス」だから笑い話のニュースとして世界のマスコミが取り上げてくれる。
 ついでに日本のミサイルに対する、過剰な意識を含めて。
 正常動作ならターゲットはミサイルに向けられ、日本の動きの注目度は落ちてくる。
 その「ウラの積み重ね」で世界の仕組みが動いている。
 それ見ずに、目をつぶっていたら、知の満足にドップリ浸った「巨人の愚かしさ」をさらしてしまうことになる。  

 内交とは、すなわち国内行政である。
 もちろんあれは「内交的にもヒット」した。
 まさに壮大な予行演習であり、危機管理のウイーックポイントを検証し、ミサイル問題を大々的に国民の俎上に載せた。
 まったく、「やってくれました」と脱帽してしまうほどのすばらしい政治の手際であった。
 「ちょっと、怖い」ほどの仕上げのよさ。
 チャンスとみたら、とことん利用するといった、国家のエゴイズム。
 それをマトモに出すと嫌われるので、誤報という形に変えて実行してしまう。
 外から見ていると、そのように映る。

 「滅びゆく国家」 どころの騒ぎではない。
 アメリカ発世界同時不況が終焉したとき、やっぱり先頭を走っているのはニッポンということにもなりかねない。
 それも大きな差をつけて。
 「成長」はやめて欲しい、世界の舞台から降りて「成熟」へスタンスを切り替えて欲しい、と心から願うのだが。



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2009年4月16日木曜日

:矢沢永吉「アー・ユー・パッピー?」


● 2008/03[****]



 さて、「本と誠」の記念すべき第1回でとりあげるのは---。
 「
アー・ユー・パッピー?
 きら星の如くスターひしめく芸能界で、ひときは眩しく輝く「超一等星」、矢沢永吉の著書である。



 これをタレント本として語ることすらおこがましい。
 なにしろ出版2カ月で早くも30万部を超えるセールスを記録。
 矢沢信者にとってはまさに経典であり、ファンにとっては矢沢の神々しい語り口に、自分で旋律を伴奏すべき矢沢の新作アルバムの一つであるだろう。

 しかし、この本は矢沢ファンでない人にとっても、読後に「アイ・アム・ハッピー!」と、その面白さを呟ける「
”ボス”・オブ・タレント本」である。 
 なにしろ前作、矢沢永吉激論集「
成りあがり」の出版は、今から20年以上の前のこと。
 今なを絶版されることもなく、若者のバイブルとして読み継がれ、延べ100万部を超えるロングセラーなのである。
 そして今回、人生で2作目の出版が本書。
 驚くべし、「
20年にたった2冊!

 まったく、執筆ペースも永ちゃん流の”時間よ止まれ!”なのである。
 著書を「本業」にしないのにもかかわらず、職業作家よりも圧倒的に売り上げ、絶対的影響力を与える、
その威力
 これぞ、タレント本の極みである。

 序章に「膨大で払いきれない有名税」と書いたが、「ハッピー?」は没頭から、98年に発覚し、世間をアッと驚かせ、詐欺事件としては「オーストラリアの犯罪史上2番目の大きさ」である、30億円横領詐欺(最終的には35億円)の顛末から語られる。
 これこそ前代未聞の”有名税”である。
 「好事魔多し」のたとえ通り、新たな拠点のためにオーストラリアにスタジオや音楽学校用の26階建ての高層ビルを建てるべく投資した資金を、信頼していた部下2名の”共犯者”によって「詐欺、横領、公文書偽造、私文書偽造、
詐欺件数 73件」もの大犯罪を仕掛けられ、10年にわたって30億円もの大金を騙し取られた。

 当初、この横領被害報道に対し取引銀行は慌てて、「血相を変えて取り立てに来た」とのこと。
 それに対して、
矢沢は言った
 <注:何と言ったかは、本を買って読んでください>
 まさに”キザな野郎”である。
 なんと、ケツをまくることなく、30億もの負債を、自分でケツを拭こうというのである。

 矢沢は偉大なる時代の先駆者であり、ロックの経済革命家、つまり、多くの人が学ぶべき”金持ち父さん”である。

 さて最後に税務調査的に言えば、この本は明らかに”過少申告”なのである。
 と、言えば、30億円のサギの額のことと思うでしょう?
 「ノー、ノー!」、そんなことじゃない。
 矢沢の輝ける栄光について矢沢自身が”過少申告”なのだ。

 本のデフレ化が進む中、この一行を読むだけでも、単行本の定価1,300円はお釣りがくる。
 なぜなら、この本代は、「成りあがり」の矢沢に「ぶらさがり」で過ごしてきた、我々、国民が、矢沢の支払い続けてきた数々の有名税に対して、感謝を込めて還付すべき、お金なのだから。
(2001年8月号より)

 その後、矢沢永吉氏は、本書文庫版で、約束通りファンに対し、この横領事件の裁判の結審を報告。
 そして2004年、長年住み慣れたロスから帰国し、35億の借金を7年で完済したことを発表。
 それどころか赤坂に総工費15億円の”音楽御殿”を建ててみせ、”リベンジという気持ちがなかったと言えばウソになる。ここから新しい音楽を生み出したい”と発言。
 
見事すぎる、”ハッピーエンド”を決めてみせた。





 裁判には3人の通訳がつく。
 矢沢側の通訳、被告側の通訳、そして両者の中にたって公正にして中立な裁判所が選ぶ公式の通訳。
 友だちがそれをやった。
 もちろん日本人。
 超一等星、矢沢永吉の裁判の公式通訳!

 ”友だち”?
 どの程度の?
 知り合いの知り合い?
 小学校の同級生、6年も同じ教室で苦楽をともにした。
 私はシルバーコロンビア計画による「日本は老人も輸出するのか」騒ぎで、移民法が変わる直前のドサクサをつかまえて、運よく書類提出だけでこの大陸にもぐり込んだ。
 が、彼は大学卒業後、アメリカへ行き国籍を取得し、その後の天文学的に締め付けの厳しくなったここの永住権を何と”エグゼクテイブ・クラス”でゲットした。
 「裁判はどうだった」
 「裁判所の書類にサインしているから、喋れない」
 ウン。
 その後、スッポリと矢沢の裁判のことは忘れていた。
 この本を読んで、「そうだな、そんなこともあったな」、と想いだした。

 裁判の秘守義務の期間はもう過ぎたようだ。
 といっても、お金持ちの世界。
 聞いてもしかたがない。
 ただ、ジェラシーを感じるだけかも。
 聞かないで済ませようかな。
 なにしろ30億円。
 掴みどころのないお金の額。

 私は「成りあがり」の矢沢に「ぶらさがり」で過ごしてきたわけではない。
 よって、1,300円の本は読んでいない、もちろん前作も。
 そのうち、古本コーナーに出てきたら、1ドル50でゲットしよう。



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2009年4月15日水曜日

本業:あとがき 「たけし!」:水道橋博士


● 2008/03[****]









 一冊の本を書き終えた。
 タレントがタレント本のみを書評したタレント本は、日本で最初の試みではないだろうか。
 編集部からの要請は、「書評家の書かないような、著者との交流、ご自身の体験談を入れて欲しい」とのことであった。
 必然的に、お会いした事のある著者の本が並んだ。
 その数、39冊。
 つまり大半は俺と面識のあるタレントの本なのである。
 だからこそ、書評というより、交遊録や人物評、俺字恣意への自己言及が再三なのもその理由による。
 
 50冊(注:ボーナストラックとして11冊追加されている)の中、師匠・ビートたけしについて触れた数は、17冊もある。
 「あとがき」で取り上げる一冊もビートたけし著-----。
 「たけし!」である。
 本書は漫才ブームの全盛期、2081年に出版された、語り下ろしのビートたけしの自叙伝である。



 「人生に期待するな
 と本書に書かれた最後の一行を読み終えると、俺はまるで天からの啓示のように、この人の下へ行こうと決心した。
 その瞬間すら憶えている。

 この「たけし」の下へ行けば、全てが変わる!
 その日から、受験勉強も始めた。
 そして、大学受験の上京はその口実であった。
 そして予定通り、大学は4日、取得単位ゼロで辞めた。
 それでも優柔不断な俺は、弟子入りするには4年間の長い逡巡があった。
 そして、23歳のとき、多くの仲間が進路を決めた時、弟子志願を試み、たけし軍団に潜り込み、親になんの相談もなく、いつの間にか、「浅草フランス座」のストリップ小屋に住み込んでいた。

 事情を知った、田舎の両親は慌てて、二人して、俺を連れ戻しに来た。
 浅草のホテルに長逗留し、
 「
子どもを返せ!
 と、まるで後に社会問題化したオウム信者の親御さんのような風情でフランス座へ通い寄った。
 劇場でエレベーターボーイをしながら、客の呼び込みをしていた俺は、両親の姿を見ると、屋上に駆け上がり、顔を合わせようともしなかった。
 それでも、親元に戻らなかった俺を母は長い間、
 「
たけしに子どもをさらわれた
 と、言っていたそうだ。

 そりゃそうだろう。
 20年も前のたけし軍団は、昔のイメージのサーカスと変わっていなかった。
 その後、10年間は、実家とは音信不通だった。
 親にしてみれば、勘当ものであったのだろう。

 しかし、18年後、俺に子どもが生まれ、「たけし」と名づけ、田舎へ連れ帰ったとき-----。
 「たけしに、子どもをさらわれたと思ったら、たけしを孫にして戻ってきた」
 と母は言った。






「序」にこうある。

 「タレント本とは何か?」
 今回は、「日経」風にズバリ定義させていただく。

 と。
 それから、長い文が続いて、序が終わってしまった。
 「ウー、どこに"ズバリ定義"があったのだ?」

 もういちど読み返してみる。
 最後のほうにらしき文がある。
 どうもこれらしい。

 よって、タレント本とは、「膨大で払いきれない有名税に対するタレント本人による青色申告書」であり、自ら世間から換算して欲しい、自分への価値そのものなのだ。

 でも、いくら読んでも分からない。
 社会科学系専門書の翻訳文献によくある、逐語訳に似ている。
 短い文なので、難しくはないはずだが。
 半導体チップの取り扱いマニアルと同じ。
 確かに正しいらしいのだが、一語一語に説明をつけ読み込み続けないと、ぼよよーんとして頭に入ってこない。
 

 これが世にいう「日経風定義」?。
 えらく難しそうに易しいものを書き換え、内容をそのぶん高尚味にさせて、何となく分かったような、頭がよくなったような雰囲気に誘うテクニック。
 ところで青色申告は私の知っている限りでは、過去5年間(注:調べてみたら最近は3年に変わっている)に赤字があったら、今期の利益から相殺できるというものでなかったか。
 これが、どうからむのだろう。
 それとも、ただ単にタレントとは家族事業であるということを青色申告で強調しているのだろうか。
 



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2009年4月14日火曜日

:高齢化と労働力不足と空洞化


● 2005/01[2004/12]




 社会の高齢化が、日本将来に関する議論のすべてに影響を与えている。
 社会の高齢化はさまざまな影響を与える。
 もっとも単純な水準では、労働供給の問題がある。
 15歳以上の、65歳未満の生産年齢人口は数年前にピークをつけ、今後数十年、減少を続けると予想されている。
 労働力不足を補う対策として、大量の移民受け入れが提案されている。
 日本が「
大量移民」を受け入れた場合にぶつかる深刻な問題を度外視しても、労働供給という観点では、少なくとも今後30年、大量の移民を受け入れる必要はない。
 今後に予想されている労働力不足を緩和する要因が働いているからだ。
 第一に、「
自動化とロボット」の利用が進んでいる。
 ロボットは低コストの労働力であり、休憩も病気休暇も有給休暇も必要とせず、労働組合を結成することもない。
 第二に、現在は六十歳が定年になっているが、平均寿命が世界一の日本には低すぎる。
 現役の期間をもっと長くし、年金の支給開始年齢を高める政策を継続すべきだ。
 第三に、適切な保育施設を整備し、出産・育児休暇などの制度を拡充するだけで、働く女性を百万人以上、楽に増やせる。
 第四に、中国やアジアなどには低いコストの労働力が余っている。
 技術水準の低い労働集約型の仕事を東アジアに移していけばいい。
 これは「空洞化」ではない。
 経済の自然な発展であり、それによって東アジア諸国の経済が成長すると共に、日本の労働力は付加価値が一段と高い分野に移行する。

 確かに高齢化は問題だ。
 若者が少なくなって社会の活力が低下するし、高齢者の医療費と年金がかさむし、人口減少で経済成長率が低くなる。
 だが、見逃されることが多いようだが、「大量移民の受け入れ」はもっと大きな問題を生み出す。
 大量の移民を吸収できる国はきわめて少なく、おそらくアメリカ、カナダ、オーストラリアのみであろう。
 だがこれらの国は国内に共通の文化基盤がなく、社会の結びつきは低水準のものにすぎない。
 物理的にも社会的にも、大量移民を吸収できる余地がある。
 日本のような社会結束の強い国では、大量移民を受け入れた場合、社会的リスクが極めて高く、あらゆる種類の社会的コストが発生する。
 結論はこうだ。
 労働力不足は差し迫った問題ではなく、大量移民受け入れは、いずれにせよ解決策として不適切である。

 人口構成の変化、社会の高齢化、それが労働力人口の規模や個人消費のパターン、社会保障のコストに与える影響はいずれも、世界先進国に起こっている「
成熟の動き」の一環である。
 人口構成の変化は、日本に特有のものではない。
 西ヨーロッパの各国でもよく似た「動き」が起こっている。
 だが、日本の動きは特に供右側であり、調整が難しい。

 日本の人口は20世紀に3倍近く増加したが、21世紀には半分になる可能性もある。

 少なくとも今後30年は、労働力不測は深刻な問題にはならない。
 人口構成が急速に成熟している。
 「成熟」は、本来、「危機ではない」。
 うまく対応すれば、成熟は安定と幸せをもたらす。

 まず注意しておくべき点をあげるなら、現時点で労働力不足の問題はない。
 失業率は5%前後と、日本の過去の水準と比較して極めて高い。
 いまのところ、労働需要に充分な余裕があり、今後何年にもわたってこの状況が続くだろう。
 将来、労働力不足が問題になることは間違いないが、現時点ではこの問題はない。
 今後数十年に「
労働力不足」が最大の問題になる、との見方は的外れだと思える。

 社会が高齢化すればもちろん、需要のパターンが変わる。
 幼稚園より成人教育が重要となるし、十代の若者の娯楽より、大人の娯楽が重要になる。
 住宅の建設より、改築と贅沢が重要になり、休暇が増え、医療サービスの需要が増える。
 需要は減るのではない。
 「変わる」のだ。
 また、人口減少によって所得水準が下がるとはかぎらず、逆に上がる可能性が高い。

 日本は国民に共通する価値観によって社会行動の決まっている国であり、アメリカの方式は日本の「
将来のモデル」にははならない。
 先進国のほとんどは共通の自国文化を基盤としており、過去数十年に、イタリア、ドイツ、スエーデン、フランスで大量の移民を受け入れの社会的コストがきわめて高く、重要な政治問題になることがはっきりしてきた。
 日本は「国の歴史が極めて長く」、文化と社会の統合が進んでいるので、移民を大量に受け入れた場合の問題は一層大きくなるだろう。
 日本が大量移民を受け入れるべきだ、とする主張はバカげている。

 製造拠点を海外に移す動きは「
空洞化」と呼ばれている。
 軽率な言葉であり、状況を正しく理解するためにはまったく役に立たない言葉である。
 日本の産業が空洞化すると言えるのは、国内産業が停滞していて、高付加価値製品に移行していないときだけである。
 日本経済が成長を収めてきたのは、技術水準が低く労働集約型で低付加価値の製品から高付加価値の製品へと着実に移行してきたからであり、今後もこの「
移行」を続けていくことが「成功のカギ」になる。
 成熟した製品の生産を海外に移すのは、実際には経済の発展なのであり、これにより日本は開発途上国に経済発展に必要な資本と技術を提供し、日本国内では「
次世代技術と製品」に力を集中する。
 この過程を「空洞化」と呼ぶのは奇怪だ。

 海外への投資は労働人口の減少に対処する方法の一つだと結論づけるべきである。
 移民の受け入れは日本にとって、さらには大部分の国と社会にとって、「答え」にならない。
 それよりも、日本は人口構成でみて、成熟した社会になり、経済面では新しい技術と製品に集中するようになり、
 過去に苦しんできた「
人口増の圧力」から開放される、
と見るべきでだろう。
 少なくとも今後30年には、日本の庶民にとって、労働力不足が生活の質の向上を妨げる要因にはならない。












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2009年4月13日月曜日

新・日本の経営:ジェームス・C・アベグレン


● 2005/01[2004/12]



「再設計の十年」



 日本は21世紀に入ったいま、そう簡単には理解できない矛盾した性格をもっている。
 日本はきわめて豊かで、類をみないほど「社会が健全な国」である。
 社会がこれほど「洗練されている国」は珍しい。
 人々は誰に強制されることもなく礼儀正しく振る舞っている。
 だが他方では、日本は常に自国を卑下している。
 自国にほとんど誇りをもてないように見えるし、世界の中で自国の地位に確信がもてず、自国について語るときは控えめな言葉を使い、海外では否定的に描かれていることが多い。

 世界に緊張のタネがきわめて多いが、日本には民族、宗教、階級の違いで社会対立の大きな源泉になるものは特にない。
 ほぼどの指数でみても、経済と社会は異例なほど健全だ。
 したがって、日本人が自国にそれほど誇りをもっていない点が、ますます不思議に思えてくる。
 21世紀に日本が直面している問題のうち最も深刻な点は、この「自信のなさ」、特に「若者の無気力」だともいえる。
 日本人はいつも「将来を悲観的に、現状を否定的」に見ており、事実を客観的に分析すれば根拠のないことがハッキリしていても、こうした見方が根強いのが確かな現実である。

 他国の人たちは逆に、外国人の前で自国を批判したり、他人の前で身内を批判したりするのをためらうのが普通であり、たいていは自慢したがるものd。
 日本人はこういう自慢が不得意だ。

 日本は「経済と社会が成熟した国」である。
 経済の成長の時代は終わった。
 現在の産業構造と人口構造からそういえる。
 1960年代や1970年代のような高成長が長期にわたって続く状況には戻らない。

 そこで問題はこうだ。
 ここまで豊かな国で、「経済成長は必要なのだろうか
 現在予想されている通り、今後50年に日本の人口が20%減少するのであれば、その間に経済がまったく成長しなくても、一人当たりの平均所得は25%増加する計算になる。

 日本は今後100年に、生産量の拡大ではなく、生活の質の向上に集中できるだろうか。
 あるいは「経済成長へのこだわり」が強すぎて、他の道を考えることすらできず、まして追求するができないのだろうか。

 日本は第二次世界大戦で完全に敗北し、極端な貧困に苦しんだが、わずか50年ほどで経済大国になり、大きな富を築いた。
 これは過去に例をみない成功であり、貧困の桎梏から抜け出そうと苦闘している国が多い中で、詳しく検討に値する事例である。
 もちろん、ここまでの成功をもたらした要因はいくつもある。
 だが、真の原動力は「日本の民間企業」であった。

 日本経済が成功を収めたのは何よりも、「日本の文化に基づいて経営システムを築き上げた」ことによるものだ。
 この基盤をから離れる動きをとる際には、リスクが極めて高いことを覚悟しなければならない。

 日本はまったく唐突に経済の高成長時代、伸び盛りの十代にあたる時代から、経済と人口構成が成熟する時代にいこうしたのだ。
 高成長の時代に使われてきた政策と方法が突然、「逆効果」になった。
 経済の健全性を取り戻し、21世紀に前進を続けるには、企業と産業の「
再設計」が緊急に必要とされるようになった。

 時間はかかったが、大量の企業と人員を整理する方法を避け、日本のシステムの基本的な強みを維持しながら、必要な変革が進められてきた。
 「失われた十年」という言葉が不用意に使われることが少なくないが、1995年から2004年までの10年間をそのように表現することはできない。
 この言葉はまったく馬鹿げている。
 この10年は失われたどころか、実に活発に効果的に使われてきた。
 [停滞の十年」という言う人もいるが、とんでもないことだ。
 この10年は、日本企業が戦略と構造を再編する決定的な動きをとってきた時期であった。
 極めて重要な「
再設計の十年」であり、停滞していたどころか、緊急に必要だった新しい制度を次々に確立した10年であった。

 じつに興味深いことだが、日本企業がもっとも大きく変わったのは財務の分野であり、人事の分野、つまり会社全体の中での人間にかかわる部分は、変化が最も小さかった。
 人事に関する部分でも環境の変化に適応した変革の動きはあるが、文化のあきらかな制約の中での変革にとどまっている。

 変革ではなく、「
継続性」が主題になるのは、日本企業の仕組みのうち、「人間にかかわる部分」に注目したときである。
 これは当然である。
 他の経営システムと比較したときに日本の経営システムを特徴づけているのは、人間にかかわる部分であり、日本の企業文化は、この部分に基づいているからだ。
 日本企業はなによりも社会組織である。
 企業を構成する人間が経営システムの中心に位置している。
 会社で働く社員が利害関係者の中心である。
 会社という共同体を構成しているのは、社員なのだ。
 したがって、日本企業が社員との社会契約を守る姿勢を変えていないのは、驚くに値しない。
 「終身雇用制は終わった」という主張は過去にも常にあったし、今もある。
 だが、終身雇用制は終わってはいない。
 平均勤続年数は、経済が苦しかった過去何年かにもみじかくなっていない。
 逆に、着実に長期化しており、今でも長期化の動きが続いている。
 日本企業の経営システムは基本的な部分で「継続性」を維持しているのだ。

 日本ではほとんどの国と違って、企業の生命が極めて長い。
 日本で最もふるくからある会社は、そしておそらくは世界で最も古くからある企業は、飛鳥時代の西暦578年に創業した「金剛組」である。
 大阪に本社をおき、寺院建築を中心とする総合建設会社であり、金剛家によって40代にわたって経営されている。
 二番目に古い会社はおそらく奈良時代の西暦718年創業の「法師」であり、石川県の温泉旅館として46代にわたって経営されている。
 金剛組と法師は家業として受け継がれてきたものだが、上場企業のなかで、最も古くからあるのは和菓子の老舗の「駿河屋」であり、室町時代の1461年の創業というから、コロンブスがアメリカ大陸に向けて出発する以前から続いていることになる。

 歴史的にみても、日本経済は常にダイナミックに変化してきた。
 「再設計の10年」に起こった変化は、長年にわたって続いてきた変化に、新たな局面が加わったものにすぎない。
 高成長が長く続いたことから、日本はすべての産業で企業が多すぎる状況になり、統合が必要になった。
 そして、やはり高成長が長く続いたことから、企業は事業を極端に多角化してきた。
 この結果、日本の大企業の多くが悲惨な戦略的失敗に陥った。
 戦略の基本は「絞込み」である。
 資金と人材という資源には限りがある。
 一つの事業に絞込み、その事業で支配的地位を獲得した後、はじめて次ぎの事業に進出し、その事業で支配的な地位を獲得しなければならない。

 巨大な日本経済で、再設計の動きは程度の差こそあれ、ほぼすべての産業に影響を与えた。
 産業の構造のレベルでも、個々の企業のレベルでも、きわめて大きな変化があった。
 これだけ「大がかりな再設計」が徹底して行われ、大きな成功を収めたのは、日本の経営者から一般社員まで、いかに優秀な人材が揃っているかを示すものである。
 再設計は10年の時間を必要としたが、経済全体も個々の企業も、過去の成功を生み出し、今後の成功のために不可欠な強みを失うことなく達成できた。

 成功を収めている日本企業が売りに出されることはない。
 外国企業だから買収できないのではなく、日本企業でも買収できないのだ。
 だから、これは「参入障壁」ではない。
 日本の「経営慣行」である。
 日本は競争がはげしく、地価と人件費が高い。
 流通制度が複雑だ。
 人材を集めるのは容易ではない。
 したがって、外国企業は日本企業を買収できるが、ごく例外的な場合を除けば、経営不振に陥った企業しか買収できない。
 外資による日本企業の買収はおおむね失敗に終わっている。
 文化の違う国の企業を買収した場合には、成功率が最も低い。









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2009年4月12日日曜日

:死者の書



● 2008/06[****]




● 言葉と文字を与えし者


 1833年4月、シャンポリオンの死後一年目、政府はその草稿を5万フランで購入し、全88巻からなる草稿がパリ国立図書館に収められた。

 ヒエログリフ解読の衝撃はほとんど信じがたいほどだった。
 事実、それはまったく新しい文明の発見を意味した。
 ヒエログラフとデイモテイクで書かれた古代エジプトの文献の翻訳が本格的に行われるや、古代エジプトに関するさまざまな驚くべき情報が明らかになった。

 翻訳されたものは膨大な量にのぼり、種類も広範囲に及ぶ。
 パピルスや板、革に記されたテキストのほか、割れた壺や石(陶片)に刻まれた言葉、神殿や墓の壁一面の彩色の碑文、ファラオの巨大な彫像からミイラに巻かれていた布にいたるまで、さまざまなものに記された文字があった。
 ナポレオンのエジプト遠征に加わった学者たちの期待が、ついにかなえられたのである。
 かれらは古代エジプトの秘密を解くことを夢みたが、いまやこの夢は現実のものとなりつつあった。


● 一年間の記録


● ハンモック


● 緑色のアイシャドー


● ビール


● 嘘


● 納税者

 といった言葉そのものが、エジプト文明の複雑さとシャンポリオンの偉業の結果として産み出された途方もない情報の広さを示していた。

 ヒエログリフとヒエラテイクで記された古代エジプトに関する情報の量と多様性だけからみても、その翻訳はひじょうに重要である。
 数多くのパピルスや陶片を含め、膨大な量の文章が残存したのは、適切な気象条件と古代エジプト人自身の態度のおかげであった。

 古代エジプト人は書記ををもっとも重要な人間(ファラオは「
書記」だった)とみなしていた。
 書記は同時代の人々のためばかりでなく、後世の人々のためにも書いている。
 このような意識は、書記の高い位置を賞賛する多くの文献に見られる。
 そのうちのひとつ、少なくとも三千年の時間を生き残った、ある教訓は「
書かれた言葉」はほかのあらゆる造られたものより偉大であると述べている。
 それは現在、「
死せる著者への賛辞」として知られている。

 書くことの巧みなお前は、これらのことをしなければならない。
 神々のあとに来る時代より
 これらの書記と賢人について
 その名は永遠に伝えられている。
 彼らが青銅や鉄の柱でピラミッドを造らなくとも
 彼らは、自分たちの書いた文字や教えを自分たちの跡継ぎそのものとした。
 
 書記になれ! このことを忘れるな!
 お前の名はかれらのように存続するのだ!
 [パピルスの]巻物は彫刻された石柱よりも
 囲い込まれた土地よりも貴重だ。
 人々は土地から去るが
 一人の語る者の口に
 彼をよみがえらせるのは一冊の本である。
 建てられた家よりも、西方の礼拝堂よりも
 はるかに偉大であるものあ[パピルス]の巻物である。
 それは立派な邸宅にも
 神殿の石碑にもまさるものである

 
 生き残ったさまざまな文献には、想像をはるかに超えるような内容が記され、古代エジプト文化の驚くべき実態が明らかにされた。
 売買契約書、勘定書、公文書、収税簿、人口調査表、布告書、技術に関する論文、軍の指令書、王の一覧表、葬式の呪文と儀式、生者と死者への手紙、物語----ほとんどすべてが現代の社会に存在するものばかりで、特に欠けているものといえば、演劇に関わるものぐらいであろうか。
 壺のかけらや小石に書きとめられたメモには、建物の材料のリストや、誰がいつ仕事についたとか、ある容器には何が入っているとかいったことが記されていた。
 おそらく教材および参照文献として使われた用語集として知られているテキストは、植物や動物、自然現象、さらには水の種類といった分類によるリストである。
 このようなリストからしか知られていないエジプト語の単語もいくつかある。

 エジプトの社会は宗教と「死後への希望」が中心となっていて、単一された宗教とみうものは古代エジプトには存在しなかった。
 というのは、エジプト人の宗教は異なる神話を持つ多くのさまざまな神々への信仰から発展したからである。
 エジプト全土においては、ファラオは神々と人々との間の仲介者だった。
 多くの神殿では、神官たちが神意を守り、それをくつがえす恐れのある無秩序を抑えるための儀式をファラオのために行った。
 大部分の人々にとって、神々との関係は通常もっと個人的なものだった。
 さまざまな方法で秩序を維持し、無秩序を阻止しようとしたが、礼拝者個人は神々が自分たちの生活に直接手をさしのべてくれることを期待した。

 「魔除け」は、生きている人間に対してだけでなく、死者を守るためにミイラを包む布にも結びつけられ、そこには「死者の書」の呪文がしばしば記されていた。
 この「
死者の書」というのは、シャンポリオンが「埋葬儀式」と呼んだ文献に対する現代の呼称で、エジプト人は

(来るべき日の呪文)と呼んでいた。

 紀元前2300年頃のファラオの場合、そこにヒエログリフが残っている限り効力があるようにと、ピラミッドの内室の壁にヒエログリフの呪文が記されていた(その呪文は現在「ピラミッド・テキスト」として知られている)。
 紀元前2000年頃には、呪文は墓の壁よりもむしろ棺に記されるようになり、このような「コフィン・テキスト」の導入により、ミイラ処置と魔法の呪文によって死後の生存を求める人々が増えた。
 もともとそのような処置はファラオだけの特典であり、廷臣たちはともに復活することうぇお願って、できるだけファラオの墓の近くに埋葬されることを望んだ。

 それから約五百年後、現在「死者の書」として知られる呪文が「コフィン・テキスト」にとって代るようになった。
 「死者の書」は、特定の内容をもった一冊の本ではなく、約二百の呪文からなるもので、その多くは「ピラミッド・テキスト」と「コフィン・テキスト」による。
 「死者の書」に定本といったものはなく、そこに含まれる呪文はさまざまである。
 それらの呪文はもはや棺にではなくパピルスの巻物に記されて、死者とともに墓や棺の中に葬むられる。
 その多くはトリノのドロヴェッテイ・コレクションからシャンポリオンによってはじめて解読され、研究された。
 死者を守る呪文の効力をできるかぎり永続させる願いは、それらの呪文が他のエジプト語の文献より多く生き残ったことでもあられている。

 「死者の書」という現代の不吉なタイトルは誤解を招きやすい。
 というのは、この呪文集に対する古代エジプト人の見方は、「永遠に生きる書」、あるいは「復活の書」にちかかったからである。




● 死者の書[Wikipedia]より



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2009年4月11日土曜日

:パピルスの巻紙


● 2008/06[****]



 ドロヴェッテイ・コレクション(注:イタリア トリノ)を研究する公式の許可状も届き、シャンポリオンの夢がついにかなえられた。

 彼は想像をはるかにこえた、驚くべきドロヴェッテイ・コレクションの第一印象をこう記した。
 「この国の言葉で言うとこうなります。 Questo e cosa stupenda! (何とすばらしいものだろう!)」

 部屋には、緑や黒、薔薇色の、きれいに磨かれた御影石の巨大な彫刻がならんでいたが、これらの彫刻の碑文よりすばらしいのは、膨大なパピルスのコレクションだった。
 これらのコレクションにざっと目を通しているうちに、たいへんな代仕事が待ち構えていることに彼は気づいた。
 大量のテキストは、簡単に解読できそうなものばかりだった。

 それらのテキストは、未知の王や奇妙な葬儀、外交文書、古代エジプト人の手紙などについて彼に語りかけてきた。
 手紙などは、彼が家族や友人に書くものと少しも変わりなかった。

 彼はテキストを読むことのできる唯一の人間であり、そこに記されて情報を役立てるためには翻訳しなければならなかったが、しかし、同時に、解読法を他の人々に教え、なによりも、できるだけ広く利用されるように、彼の最新の方法と研究成果を公表する必要もあった。

 コレクションを目にした興奮がおさまると、彼はただちにテキストの徹底的な調査を開始した。
 この段階ではシャンポリオンはロゼッタストーンの碑文をあまり利用していなかった。
 ロゼッタストーンが重要なのは、そこにヒエログリフを含む3つの言語が併記されているからである。
 このことが解読の手がかりになるものと考えられ、ヒエログリフの新たな研究の刺激剤となった。
 実際にはロゼッタストーンのテキストは、使用に限度があった。
 というのは、シャンポリオンが「ダシェ氏への書簡」で指摘したように、そのヒエログリフはだいぶ破損していたからである(注:写真でみるようにヒエログリフの部分が大はばに欠けている)。
 「ロゼッタストーンのヒエログリフは、それほどこの研究には役立たなかった。というのは、その破片から読み取れたのはプトレマイオスの名前一つだけだったからである」
 ロゼッタストーンは解読志願者の注目の的となり、その碑文は寄せられた期待に応えることはできなかったものの、いまだに一般によく知られたシンボルとなっている。
 しかし、解読の手がかりを与えるものとして、これよりはるかに重要なのは、他の碑文やパピルスだった。

 シャンポリオンはコレクションのエジプトの美術品に記された碑文の解読にとりかかり、30以上のファラオの実際の像と名前を発見した。いまや文字通り名前と顔とを突き合わせることができたシャンポリオンは、それまで考えられていたように、エジプト美術は決まりきった形式のものだけではないことに気づいた。
 ファラオを様式化して表現しているものもあったが、なかには社術的な肖像のようなものもあった。
 彼はハッと気がついた。
 彫像を通して、数千年前、エジプトを支配していた人々と対面していることを。
 彫像の短い碑文でさえ、想像を超えるようなことを語り、歴史的資料として、エジプト美術はギリシャ人やローマ人のどのような作品よりも有用であることを示していた。

 エジプト人に

(シェフェドウ---パピルスの巻紙)として知られているパピルスは、かってエジプトの湿地帯の淀んだ浅い水辺に繁茂していたカミガヤツリからつくられた一種の紙である。
 この水草はサンダルやカゴから川舟まで様々なものを作るのに利用され、紙をつくるには茎が使われた。
 刈り取ってから、茎をある長さに切り、外側の皮や筋を剥く。
 茎の芯をさらに短く切断し、あるいは薄く裂き、並べて敷きつめる。
 その上に直角に細長い薄片を同じように敷きつめ、上から押したり叩いたりすう。
 乾燥すれば、植物に含まれる自然の接着剤によって細長い薄片は結合される。
 こうして現代の筆記用紙よりやや厚い「パピルス紙」が出来上がり、文字などを書くために使われる。

 多くの目的のために書記は

(メンヘドウ---書記のパレット)と呼ばれる基本的な道具一式使う。
 ペンは葦でつくられ、その先端は細く裂かれ、ペン先というより毛筆のような形をしている。
 黒と赤のインクが一般的な筆記に使われるが、テキスト内に図を描くためには他の色のインクが使われた。
 インクは固形物としてつくられ、ふつう木製の長方形のパレットの窪みに収められていた。
 書記はインクを液体としては使わず、葦のペンを水に浸してから、インクの固まりにこすりつける。
 便宜上、パピルスは巻かれ、紐で縛って封印される。
 巻物はふつう木箱や陶製の壺に保管され、幾巻きものパピルスに書かれた物語のような長いテキストは、専用の箱や壺に収められた。

 それらの多くが、来世における死者の生存を願う呪文(今では「死者の書」として知られる呪文)であることがわかったが、その中にボロボロになった墓の設計図が一枚あった。
 古代エジプトの墓の設計図はきわめて稀だった。
 これは現存するものではもっとも詳しい王の墓の設計図で、1/28の縮尺で描かれていた。
 「エジプト誌」(注:ナポレオン遠征隊によって出版されたもの)にあった王家の谷の図版と比較して、シャンポリオンは、それはラメセス四世の墓の設計図だと考えた。
 しかし、なぜかのちにラメセス六世のものと報告書には記された。

 パピルスがこのような悲惨な状態になったのは、輸送中の扱い方のためだった。
 エジプトの気候のもとではパピルスはひじょうに耐久力があった。
 もっとも古いものは約五千年前のものである。
 しかし、不適切な取り扱いと湿気のため、もろいパピルスはたちまちボロボロにんってしまう。
 砕けやすいパピルスを広げることも難問で、未知の内容を秘めたパピルスの多くは、それを広げる新しい技術が開発されるまで、「巻かれたまま博物館に保存」されている。

 これらのボロボロになった数千の資料の残骸の中に、彼は、胸をおどらせるような興味深い破片のいくつかを発見した。
 彼が「王表」と名づけた、全部で50の手稿を見つけ出したのである。
 これは現在「トリノの王表」として知られているが、そのパピルスにはラメセス二世(紀元前1279---1213)の時代までの、エジプトの支配者の名前が列挙されていた。
 ドロヴェッテイが最初にそれを入手したとき、パピルスはほとんど完全な形をしていて、約三百人のエジプトの支配者の名前が記されていたが、エジプトからイタリアに運ばれるあいだに破損し、その一部が失われた。
 そのパピルスには、ふつうは他のリストから徐儀される外国の支配者の名前だけでなく、各支配者の正確な在位期間も記録されていた。
 エジプトの初期の歴史を解明し、年代を確定するためには王のリストは絶対不可欠なものであるとシャンポリオンは考えたが、徹底的な調査にも関わらず、パピルスの一部は見つからず、リストには空白が残った。
 その空白のひとつひとつに彼はため息をもらし、その打ちのめされた気持ちをジャック=ジョセフに伝えた。
 「このような手稿をかくも悲惨な状態で目にするというのは、ぼくの学者人生における最大の失望だと言っていいでしょう。自分を慰めるすべを知りません。この傷は長いあいだ痛みつづけるでしょう」 



● パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書:[Wikipedia]より


● パピルスの草(カミガヤツリ)


注].「トリノの王表」は、Wikipediaでは「トリノ王名表 Turin King List」と記載されている。



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2009年4月10日金曜日

:『ヒエログリフ概要』


● 2008/06[****]




● 古代エジプトのヒエログリフ表記法概要

 シャンポリオンが突如として理解し、その数年間、究明に努めてきた「原理」とは次ぎのようなものである。
 ヒエログリフの表音文字は、ギリシャ時代とローマ時代の外国名にのみ限定されるのではなく、それ以前のエジプト語にも広く使われていた、という原理である。

 のちの立証したように、ヒエログリフの文字体系は、主に3種類の文字からなる。
 「象形文字」(特殊な形の表意文字とみなされることもある)
 「表意文字」、そして
 「表音文字」から成る。
 他に、決定詞のように特定の方法で使われる文字もある(注:ということは4種類か)。
 
 このようなシステムの複雑さは、ある一つの文字がいくつかの昨日を持ちうるということから生まれる。
 たとえば、

 は描かれているものを意味する象形文字として使うことができるので、この絵文字は「アヒル」を意味するが、しかし、また表意文字としての機能も持つ。

 には「の息子」という意味があり、「ラー神の息子」を意味する称号

 「サ・ラー」にふつう使われ、ファラオの名前の前にしばしばつけられる。

 の3番目の使用法は表音文字として「サ」という音を表す。
 たとえば「木の梁」を意味する

 「サウ」のように。

 何年かのち、シャンポリオンはヒエログリフをこう簡潔に定義した。
 「それは複雑なシステムである。同じテキストや語句のなかで、その文字は同時に、象形的、表意的、表音的になりうる。同じ単語のなかでもそう言えよう」

 シャンポリオンは、ヒロエグリフの基礎的な表音原理を発見したが、アブ・シンベルのカルトウーシュではじめてみたある文字についてはずっと誤解していた。

 は「m」ではなく、「ms」(ふつうmesと綴る)を意味していたのである。


 の場合、この名前は文字通りには「Thoth-mes-s」と綴られるが、最後の「s」は表音補語とよばれ、その前の文字が「s」で終わることを示す。



 「表音補語」は二子音表示のヒエログリフ(msあるいはmesを表す上記の文字のように二つの子音をもつもの)と、

 三子音表示のヒエログリフ(ntrあるいはneterを表す上記の文字ように、三つの子音をもつもの)
に、しばしば添えられる。


 表音補語として使われるヒエログリフは下記の「s」や

 あるいは下記の「p」のように、

 一つの子音を表す、単子音のヒエログリフである。
 これらは、シャンポリオンがクレオパトラなどの非エジプト名ではじめて識別したヒエログリフである。

 表音文字のヒエログリフを分類する現代的方法のひとつは、単子音、二子音、三子音というように、その子音の数による。
 エジプト人はアルファベットのような概念は持っていなかったが、単子音文字はアルファベットのように使われ、もっとも普通に見られる文字である。

 「単子音文字」は全部で「24」あり、その2つは「弱子音」と「半母音」である。



 碑文・文芸アカデミーでの会合で、シャンポリオンはいちばん最後に表音文字とヒエログリフに関する講演を行った。
 この論文は加筆ののち、アカデミーの終身書記官のボン・ジョゼフ=ダシエあての書簡として出版された。
 「エジプト学」のの記念碑となっているこの論文は、いまでは単に「ダシエ氏への書簡」として知られている。


 1823年の年末まで、シャンポリオンは「エジプトのパンテオン」と、「古代エジプトのヒエログリフ表記法概要」と呼ばれることになる解読法び最新小生な解説書に取り組んだ。12月末までにこの『概要』はほぼ完成し、国王の寵臣、ブラカス公爵もツテを頼って、本を自ら国王に贈呈できることを楽しみにしていた。

 国王への献呈がきまるや、「概要」は出版が許可され、1824年4月、発売された。
 この本では、「ダシエ氏への書簡」でしか断定されていなかったことが詳しく述べられていて、同様に大評判となった。
 「概要」は、彼の最新の広範囲にわたるヒエログリフに関する発見が満載されていた。

 「驚くべき一冊」だった。

 序文にはこう述べられていた。
 彼の
表音アルファベット
 「はじめ、エジプトの遺跡の年代を確定するということにその意義があったが、しかし、それよりはるかに重要性を持つようになった。
 それは私にとって、ヒエログリフの表記法を解く真の鍵と呼ばれているものとなったからである」。

 シャンポリオンは数ページにわたって、解読の歴史について述べ、自分自身の成果を明らかにした。
 それから、ヒエログリフについての説明、その意味やその理由、王や個人の固有名詞に関する議論、社は医者の称号、複合的なカルトウーシュの意味、ヒエラテイクとデモテイクなどの様々な文字、非表音的ヒエログリフ(今日では象形文字あるいは表意文字と呼ばれている)、文法の概要などと続く。









【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



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