2009年7月23日木曜日

:「初めに脳死ありき」


● 1991/09



 近代医学の発展の過程の中で、いままでの単純な心臓死ではない「脳死」という状態があることがわかってきた。
 いいかえると「初めにまず、脳死ありき」であった。

 いま分かりやすく、心臓がストップするとどういうことになるか、その過程を追うと、心臓が停まるとまず、全身に血が回らなくなる。
 血が回らないと頭にも血がこなくなって、脳が酸欠状態になる。
 すると脳の中の脳幹という組織も働かなくなるという現象が起こる。
 この脳幹という部分は呼吸を司っていて、この部分が働らかなくなると呼吸が止まる。
 呼吸が止まってしまえば酸素もとりこめないから心臓も動かない。
 ここで一つ重要なことは、心臓停止が死に至る最後のピリオドではなく、その後に「脳の働きが止まり呼吸が停止する」、という過程があるということである。
 いいかえると、心臓より抹消組織のほうがわずかだがより長く生きている。

 ただ実際の場合、この「心臓死」→「脳死」→「呼吸停止」という流れは連続的に起こるから時間は非常に短い。
 そのため運ばれてきた患者がすべて脳死状態になるのではなく、タイミングよく人工呼吸器をつけられ、全身の組織が死ぬ前に脳幹に代わって呼吸を可能にさせてやることができれば、肺から酸素が入ってくるから心臓がまた回りだす。
 したがって、人工呼吸器による脳死の状態は、呼吸器をはずすと同時に終わってしまう。

 この点で脳死者は植物人間とは全く異なる。
 植物人間の場合は脳幹を包むように位置する外側の大脳が破壊されただけの状態で、脳幹そのものは働いているのである。
 したがって呼吸も自分で行えるし、食物も喉まで入れてやるときちんと消化し排泄し、暑ければ汗もかくし、目にゴミが入りかけるとまばたきもする。
 生活するのに必要な最低の機能は残されているが、人間の意志や情緒を司っている大脳が働かないので自発的な反応はできない。
 むろん意志的に手足を動かすこともできない。
 これが植物人間であって脳死者とは根本的に違う。
 脳死はまさしく、近代医学を学んだ医師たちが新たに見出した死である、ということにまちがいはない。 
 いや、医師というより、近代医療器械が生み出した死というべきであろう。

 いうまでもないことだが、脳死が容認されたからといって、脳死者がみな臓器を提供しなければならない義務などありえない。
 すべての人は、①臓器移植を受ける権利と、②それを拒否する権利、とを有している。
 と同時に、③自分の臓器を提供する権利と、④それを拒否する権利、とをもっている。
 この4つの権利は厳として存在し、自分が脳死状態になっても臓器を提供したくないと思えば、あらかじめそう宣言しておけば済むことである。

 いま改めて反対論を振り返ると、人類が何万年ものあいだ持ち続けた「死の概念」を一朝一夕に変えられてはたまらないという素朴な嫌悪感と、欧米先進国が認めているからといって、日本には古来から独自の文化と死生観があるのだから、彼らにやみくもに従うべきではないという意見につきるようである。
 近代医学はその進歩のとともに種々の恩恵を我々人類に与えてきた。
 それと同時に、自然の死生観とはなじまない概念を持ち込んできた。
 たしかにまだ冷たくなっていない、一見生きているように見える人間を死者とするには違和感を持つ人がいるであろう。
 この違和感こそが、近代医学が進歩の陰で持ち込んできたマイナスの貌である。
 これを嫌悪し忌避するのは自由だが、それなら近代医学そのものまでも捨て去る勇気があるのか。
 最新医学の心地よいプラスの面だけむさぼり、負の面には顔をそむけ、忌み嫌うというのでは、理のない駄々っ子の甘えにすぎない。
 近代医学の恩恵に浴したいなら、マイナスの面も冷静に見据え、それをいかにのり越え、プラスに転化するかを考えるのが、人類の英知というものだろう。

 終わりに、病気という極めて個人的な問題について、健康な人が論じることくらい僭越なことはない。
 健康な人は真の意味で、病で苦しんでいる人の気持ちにはなりえない。
 医の問題を論じるときには、この素朴で平明な事実を忘れるべきでない。







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