2009年7月10日金曜日

空白の天気図:あとがき:柳田邦男


● 1994/05[1981/07]



 昭和20年8月6日の広島については、多くの記録や文学作品や学術論文がある。
 その直後の9月17日に広島を襲った「枕崎台風」の惨禍に関する記録は少ない。
 原子爆弾によって打ちひしがれた広島の人々が、その傷も癒えぬうちに(注:42日後)、未曾有の暴風雨と洪水におそわれた歴史的事件を、今日知る人は果たして何人いるだろうか。
 原子爆弾による広島の死者および行方不明者は二十数万人にのぼったといわれる。
 これに対して枕崎台風による広島県下の死者および行方不明者は2,012人である。
 前者が創造を絶する非日常的な数字であるのに対して、後者は現実的で日常的な数字であるように見える。
 枕崎台風の悲劇が、原爆被害の巨大な影に隠されて見えなくなっているのは、ひとえにこの数字の圧倒的な落差によるためかも知れない。
 だが、冷静に数字を見つめるならば、一夜にして2千人を越える人命が失われたということは、尋常なことではない。

 気象台の台員が日々の観察を欠測なく続行するということは、あまりにもあたりまえのように見えるかもしれないが、それは背広を着た安穏な時代の机上の思考に過ぎない。

 昭和46年になって、気象庁の機関紙「測候時報」1月号に、原爆当時、広島地方気象台の技術主任だった北勲氏が執筆した「終戦年の広島地方気象台」が掲載された。
 この記事を読んだとき、私の照準はしっかりと定まった。
 広島地方気象台は爆心地から3キロ半ほど離れた江波山の上にあったため、爆風による被害は受けたが、焼失は免れることができた。
 台員たちは負傷しながらも、観測業務を続行した。
 北氏の記録は、その状況を簡潔に生き生きと伝えていた。

 原子爆弾によって広島が壊滅した後、広島地方気象台に対して中央気象台が救援の手を差しのべたのは何日くらい経ってからであったか、公的な記録は何一つ残っていない。
 北氏はインタビューで次のように語った。

 原爆の後しばらくの間は、一週間くらいだったでしょうか、中央からは何の連絡もないし、こちらからも連絡をすることができず、われわれはもう忘れ去られてしまったのではないかとさえ思ったほどでした。
 台員たちの気持ちも、そんなわけで不安定なものでした。
 そのうち8月15日になって玉音放送でした。
 私たちは、国が瓦解したのではないかと心配したりしたのですが、どうしてよいかもわからず、ともかく観測だけはやってようじゃないかとということで、その日暮らしをしていました。
 東京から中央気象台の人がやって来たのは、かなり経ってからで、8月15日より後だったように思います。
 事務系の人でした。
 リュックを背負っていたのを覚えています。
 2,3時間私たちの話を聞いて帰って行きました。
 その人が中央気象台から当座の業務のためにとお金を持って来てくれたのです。
 応急的な資金としてはとても助かりました。


 北氏は後日、次のような手紙をくださった。

 中央から連絡員が来られた日がいつだったかよく思い出せません。
 あるいは8月15日以前だったかもしれません。
 広島駅付近の破壊状況から鉄道が部分的にでも通じたのは数日後だったようです。
 学術調査団の一行が8月10日正午ころ、入市していますので、10日頃には何とか来られたはずですから、あるいはその頃だったかもしれません。
 リュックを負い、ゲートルを巻いた方(2人だった?)と庁舎玄関ホールのところで出会い、挨拶をして、台内外を案内し、官舎の方も見てもらい、現状を中央に報告してもらうように以来しました。


 中央気象台が広島に職員を派遣して、緊急の資金としてなにがしかの金を届けたことは間違いないようだが、誰がいつどのくらいの金を届けたのかとなると、どうにもはっきりしない。
 中央気象台が広島に救援隊を派遣しようと思えば、8月15日以前でも可能であった。
 しかし、中央気象台がそのように速やかな救援の処置をとるためには、広島の被害について詳しい情報を入手し得たこと、中央気象台側に地方の気象官署の戦災復旧に即応できるだけの体制と資金的なゆとりがあったこと、中央気象台長らが的確な判断ができたこと、などの条件が必要だったはずである。

 長い時の流れの中で埋没し、失われてしまった多くの構成分子を何らかの形で補う必要があった。
 ところどころ欠けた結晶格子の点と点をつなぎ合わせ、線と線を交叉させて、原型を復元させる作業は、原型の全体像をどうとらえるかという構想力の問題と関わりあう。
 私はまさにその原型復元作業において小説的手法を用いた。




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