2009年1月29日木曜日

:アジアの終わり、ヨーロッパの始まり


● 2003/12



 その時、
 「こんにちは、こんなところで日本の方に出会うとは‥‥」
と声をかけられた。
 振りかえると初老の紳士が立っていた。
 「女性の一人旅ですか。いいですね」という。
 私は「お仕事でイスタンブールですか?」と聞いた。
 紳士は淋しそうに肩をすくめ、陽が落ちかかった西を指差した。
 金角湾が夕日にキラキラ輝き、巨大なモスクが影絵のように浮かんでいる。
 「私、今井といいます。
 この夕日をを見たくて青森からやってきたのです。
 私の旅はお嬢さんのように、明日を求める旅じゃないんですよ‥‥
 死ぬための旅なんです」 
 「死ぬため?」

 「三十年間一生懸命働き続けました。
 ようやく定年になり、やれやれこれで一段落とおもったら、娘と妻は二人だけで仲良く暮らしており、私の居場所はなかった。
 仕事、仕事の毎日でしたからね。
 それもしかたないです。
 でも、やっぱり孤独は募るばかり。
 同じ孤独なら、家族と一緒よりも一人で味わうほうが救われると旅に出ました」 

 「そんな‥‥、家には連絡を入れているのですか?」
 「いえ、今更、電話したところで‥‥」
 私は言葉が見つからず、黙って夕日を見続けていた。

 すると老紳士は
 「冗談、冗談ですよ。
 若さ溢れたあなたが羨ましくなって、馬鹿なことをいってしまいました。
 それではよい旅を!」
 今井と名乗る紳士は、クルリと背を向け、去っていった。

 私は螺旋階段の降りる靴の音を聞きながら、しばらく目を閉じた。
 ”家族って、生きるって、何なのだろう?”


 やはりもう、「夫にエサをやる必要はないのだ





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:酒に酔い、愛に惑う遊牧の末裔たち


● 2003/12



 彼は深呼吸しながら、公園のベンチに腰を下ろすと、一気にこういった。
 「僕、日本で半年間、拘置所に入っていたんです。
 罪名は過失傷害罪」
 「えっ!」
 私は一瞬、耳を疑った。
 頭がクラクラした。
 中国からの国際列車で出会い、人生や青春についていろいろ話をした。
 酒まで飲んで盛り上がり、ダンスまで一緒に踊った。
 いつも紳士的で、ふりむけばニコニコ笑っていた。
 そんな彼が拘置所にいたなんて?
 彼は俯いたまま淡々と話続けた。

 「人生の歯車はちょっとしたことで大きく狂います。
 留学当初、僕の人生は絶好調でした。
 猛勉強して、半年間で日本語検定試験一級に合格し、奨学金試験にもパスしました。
 本来なら今頃、月17万円もらって日本の大学院に通っていたはずです。
 あのいまいましい事件さえなければ‥‥」
 彼はもう一度、大きなタメ息をついた。

 「あれは大学院に合格した日の夜でした。
 留学生仲間のイタリアの女の子とウイグルの男3人が、合格祝いに僕の部屋に来て、酒盛りを始めました。
   <略>
 救急車のサイレンが鳴り、奴が病院に運びこまれ、僕は警察の取り調べ室にいました」

 「それで?」
 「たいして親しくなかった人が親身になってくれたり、多くの人に助けられました。
 大学内で僕の正当防衛を主張する署名運動をおこし、数千人の署名を集めてくれたのも、そんな友人たちです。
 そして裁判の傍聴席にきてくれたのは、日本の友人ばかりで、こまめに面会、差し入れにきてくれたのも日本人でした。
 だから列車の中で、あなたのことを聞いたとき、何かお役に立ちたいと思って、あなたの車両まで行ったのです」

 「もう一度、日本に留学しようと考えていますか?」
 「いえ、僕はカザフスタンで生きてゆこうと決めました。
 拘置所から出た時、友人の父親が、奨学金なしでも夜間大学院に通えるよう、日本の企業への就職を用意してくれました。
 でも、僕はカザフスタンに帰る必要性みたいなものを強く感じていました。
 いくら日本人に親切にされても、この事件は思い出すだけで胃が痛くなる嫌な思い出。
 忘れるためにも日本を離れるのが一番だと思ったのです」

 「なぜ、両親のいる中国ではなく、カザフスタンだったのですか?」 
 「祖国再建といえばキザに聞こえるでしょうが、でもそうなのです。
 日本は素晴らしい国です。
 物が溢れ、インフラがすべて整備されている。
 アメリカに原爆を落とされた国が、見事に再生しているのを現実に見て、僕は感動しましたし、こうおもいました。

 ”カザフだって、できないはずがない!” 」


 つらい言葉。
 日本人はもう昔に忘れてしまった。
 でも、本当に忘れてしまったのであろうか。
 わからない。





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冒険女王:女一人旅、乞食列車12,000キロ:大高未貴


● 2003/12



 北京からイスタンブールまで1万2千キロ。
 飛行機で行けば、たった十数時間の距離だが、列車やバスを乗り継いでの旅では、なんと巨大な空間であったことか。
 そこでは人さらいや強盗団の噂が跋扈し、ウルムチやウズベク、トルコ国境では民族紛争、テロが取りざたされていた。

 私はこれまでにもイスラエルのガザ地区やその他の政情不安な地域を取材したことはあったのだが、あえてまたそんな危険な地域を旅しようと思い立ったのには理由があった。
 それは、二十代最後に何か大きなことにチャレンジしたかったこと、
 そして、この旅が自分のはまり込んでいたスランプ状態を克服するきっかけになるような気がしたからだった。
 当時の私は三十歳を目前にして、仕事もおもうように軌道に乗らず、かといって結婚する気にもなれず、不確かな将来を思い悩んでいた。

 そんな折に、NHKのシルクロード鉄道(中国からトルコ)開通の番組を見たのだ。
 エンデイングの音楽を聞きながら、私は興奮していた。
 「コレだ!」 と思った。 
 陸路でユーラシア大陸を横断するなんて、ものすごい大冒険だ。
 これを成し遂げられたら、絶対現在の閉塞状態を脱出できるに違いない、そう直感したのだ。

 無謀にも丸腰のままで旅立ったユーラシア大陸では、見るもの聞くもの、毎日がカルチャーショックの連続だった。
 衣・食・住の違いや、過酷な自然環境もさることながら、宗教やイデオロギーといったものが、あたかも漬物石のようにそれらの国の人々の上にドデンとのっかっている厳然たる事実は、平和ボケ日本に育った私の目をさますに充分だった。 
 
 1998年3月から2カ月半を要したたびを終え、イスタンブールから無事帰国した時の気持ちを正直にいえば、こうだ。

 「ああ、日本に生まれてよかった」

 なんとも申しわけないような結論なのだが、以前の私は、どことなく日本人であることに引け目を感じていた。
 学校で歴史の時間に教わった、第二次世界大戦の負い目もある。
 欧米の文化や生活習慣に対するコンプレックスもあったかもしれない。
 しかし、実際には違った。

 「日本のパスポート」は世界中どこへ行っても「信頼と尊敬」を集める。
 あたかも水戸黄門の印籠のようなものであった。
 それは過去から現在に至るまで、さまざまな形で、多くの日本人が誠実な姿勢で世界に貢献してきたという証に他ならない。

 また、世界の人と向き合う時、日本人の誇りや自覚がないと、いい関係は築けないということも知った。
 何故なら、自分を愛せない人間が他人を愛せないように、自国を愛せない人間が他国を愛することはできないからだ。

 彼らにはよりよい収入を得ることが明日の幸福につながるという強固な意識があった。
 結局のところ、善し悪しはともかく、彼らの生は直截でわかりやすい目標に邁進し、‥‥
 私たちの生は混沌として泥沼にはまったように曖昧だ。
 それを豊かさの罪だなどといってみたところで何になろう。

 歴史は後戻りできない。
 だとしたら現在の私たちにできることは、もっと日本を知り、自分の国の現在を、そして自分を見つめなおして、誇りを取り戻すことだろう。
 それは、史跡として残る権力者の巨大なモニユメントが教えてくれたことでもあった。

 「現在」という瞬間にフォーカスしているからこそ、シルクロードに生きる「人の生」がキラキラと輝いて見えるのだ。
 苦悩も不幸もウエルカムだ。
 どんどん肥やしにすればいい。
 それほど人生は素晴らしいものなんだ。
 シルクロードの旅はそんなことも私に教えてくれた。


 また、あとがきから読む。
 いろいろな本のあとがきを編集した「あとがき集」というのも出版されているようだ。
 あとがきを読んで把握できないときは、本文を読むのに緊張する。
 心の「ゆとり」がもてなくなるせいだろう。





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:だんだんわかったetc


● 1992/07



 少しくたびれたスーツを着たおじさんが
 僕の席の横を通ってレジに行く時、
 なんだかうれしそうに独り言を呟いたのが聞こえた。
 「だんだんわかった‥‥‥。」
 ぼくの耳にその日一日
 「だんだんわかった」がこびりついた。

 僕は家に帰って「だんだんわかった」のおじさんを推理した。

 そしてそれは”だんだんわかった”のだった。

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 受け取り人のない手紙をかかえ込んだポスト

 自分が思っているより他人は何も思っていないという事の典型的な朝だった。

 何か他とは違う、
 確実に他とは違う一つのものをその意識の中に持ちえていたならば、
 きっとそれは、
 こんな、あんな社会の中のつぶされそうな一粒でも、
 絶対に、
 「それはしめた!ものなのだ」
 ろう。
 繰り返して書く。
 「絶対にそれはしめた!ものなのだろう」
 って。


 本は「あとがき」から読んだ方がいい。
 でないと、本文の中で迷子になってしまう。





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2009年1月28日水曜日

だんだんわかった:仲井戸麗市


● 1992/07



 単行本を出せるなんて、様々な思いでいっぱいだ。

 何を書いてもいいし、何を書かなくてもいい、といった呑気なことではない。
 これは俺の仕事の一つだからだ。
 仕事なのだ。
 何かは書ききれないし、何かは書き過ぎてしまう。
 「書くのだ」。
 あふれてこぬものを、「しぼり出してでも」。

 昔から同じっていうのが嫌いだった。
 それは生理でもあるし、精神でもある。
 何ものにも属さないのが好きだったし、好きだし、好きのままであろうと思う。
 こんな時代にゃまさか、無国籍などを勿論願っちゃいない。
 みんな居場所を探して必死なのであるから、そんな幼ないたわ言は言ってられない。

 何かを語るには「体験」こそが説得力をもつ。
 社会的レベルの面した学術的分析など無意味以下だ。
 俺にはだ。
 文字通りの体験、そして未知への空想としての体験だ。
 その思いが、この単行本を書き綴る上での絶対的な材料となった。
 キーワードには、千変万化新宿の街、そしてビートルズがあった。

 次に進むための一つの区切りとして、自分にとってのある日々を一冊の本に詰め込んだ。
 本文の一人称は迷ったが、結局「僕」にした。
 あとがきは「俺」にした。
 いつか「私」とも出会ってみたい。

 中学、高校の頃、大人になれば何かが解決するものと思っていた。
 とんでもなかった。
 「もっともっとやっかいな毎日」が待っていた。

 この「あとがき」ってやつを書くのが‥‥待ち遠しかった。
 自分の単行本が本当にあるかどうか、明日本屋さんにそっと行ってみるのだ。

 


 この人、これまで知らなかった。
 YouTubeで見たがクラシック・ギターを弾かせたらいい腕だ。
 クラシック・ギターのアルバムは出ているのだろうか。  


 この本の後ろに挟まれていた1992年5月6月の「TBSブリタニカ」の新刊案内










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2009年1月27日火曜日

:図書館員の定年退職


● 1997/05



 小説の資料を得る目的で旅行に行くと、とりあえず土地の図書館を訪れる。
 「資料課」という部門があって、課員が例外なく親切に相談にのってくれる。
 もっとも十年ほど前までは、それほど親切とは言いがたかった。
 こちらの探している資料をきくと、それを書庫から運び出してきて渡してくれる。
 それで十分なのだが、なんとなく事務的な感じであった。

 それが、最近では心のこもった応対をしてくれる。
 こちらが資料名を口にすると、他にも関連した資料があると行っては探し出してきてくれたりする。
 それが、どれほどありがたいことか。

 電話を地方都市の図書館にかけ、資料課の人に自分の欲しい資料を口にすると、課員は即座に、
 「もし必要ならコピーして送ってさし上げます。コピー代の請求書は同封しておきますから、送金してください」
 と言い、私の住所、氏名をたずね、コピーを送ることのできる予定日を告げて電話を切る。
 そんなことで、何度もコピーを送ってもらった。

 誤解のないようにしておきたいが、先方は私が小説家であるから送ってくれるのではない。
 そんなことは無関係に親切に応じてくれるのである。

 そんなことで、博識の図書館長や資料課員を何人も知るようになった。
 それらの方は、まさに「生き字引」そのものと言った存在で、こちらが口にする資料を列挙し、その内容を要領よく説明してくれる。
 その方たちの頭の中には、おびただしい書籍分類カードが整然と並べられているような驚きを感じる。

 そうした館長や課員も、定年になると図書館を退いてゆく。
 図書館も役所の一部門で、退職した館長の後任に土木課や農林課の長などが就任したりする。
 むろん、新館長は図書に深い知識があるわけではなく、訪れる者におどおど対応するだけで、まことに気の毒な気がする。

 他の部門と違って図書館員は、老齢者でも十分勤まる。
 むしろ老齢者の方が豊かな知識をもっているだけに適任だと思う。

 図書館長や資料課員を定年の枠にしばりつけないで欲しい。
 それらの方々は、その「市や町の宝」であることを知って欲しいのだ。 


 前回、日本に行ったときは、その旅程の半分を図書館通いに費した。
 といっても、もったいなくも宮城谷昌光の本を片っ端から読み込んでいったすぎないのだが。
 そのせいか、このとき読んだものは3,4つの小説の筋が重層錯綜し混乱してしまい、いまだに明瞭に思い出すことができなくなっている。

 そんなある夜、図書館の入っている建物の小ホールで寄席が開かれた。
 おおいに楽しませてもらった。
 「大江戸小町会
 公演のあとに行われたチャリテー・バザーで、「落札するのだ」と決めてかかり、色紙を競り落とした。






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:かたつむりの旅


● 1997/05



 海外旅行などというものにまったく関心がない。
 生涯外国などに行くものものかという誓いに似たものさえ抱いていた。

 自分の命はかぎられている。
 地球儀でみると、この日本という国は小さな島国だが、この島を見て歩くだけでも、死ぬまでの時間ではむろん足りはしない。
 出来る範囲内で、ちいさな村のデコボコ路や、密集した下町の家々の間の狭い露地を、自分の足で踏んで歩きたい。
 それだけでも時間が不足だというのに、わざわざ異人種の棲む外国などに行く必要などまったくない、というのが私の考え方であった。

 しかし、九月下旬、はじめて日本をはなれた。
 仕事という抗しがたい理由からである。
 パリからロンドンへ、それから17時間ジェット機に乗って南アフリカへと行った。
 それからロンドンにもどり、ニュヨークに赴き、そして帰国した。
 一ヵ月半の旅であった。

 帰ってくると、会う人ごとに
 「早く帰ってきたね」
と、言われた。
 冗談ではない。
 その一ヵ月半は、私にとってまったく長い長い一ヵ月半だった。

 海外への旅に関心をもたないのは、異国のこと異国人のことは、到底理解することができまいという先入感がたちはだかるからである。
 小説を書く身として、理解しがたい土地、理解しがたい人々の群の中に入り込むことは、息苦しさを感じるだけである。
 眼を閉ざされ、耳をふさがれているのと同じものどかしさを感じる。

 外国映画に登場する日本人の滑稽な描写を、笑えない。
 長い歳月にわたって血から血へとそれぞれ固有の風土の中ではぐくまれた異国の人々、それらを筆にすることは、日本人である私が「ただ憶測するだけのこと」で、深くその対象に食い入ることは不可能にちがいない。

 旅行中に絶えず感じたことは、「ヨソ者意識」である。
 自分の棲息するのには不適当な谷に身を置いているような落ち着きを失った感情であった。

 漸く自分の棲息に適した場所に戻ってきた。
 この地には、あきらかに自分の理解し得る人たちが棲んでいる。
 これから当分の間、この島国をはなれたくない。





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2009年1月26日月曜日

:平均寿命の話


● 1997/05



 戦前は果たして平均寿命は何歳ぐらいだったのか平山先生(国立がんセンター)にたづねてみると、最初に記録されたのは明治24年から31年で、その当時の記録を示してくれた。
 男‥‥42.8歳
 女‥‥44.3歳
とある。

 昭和十年をすぎた頃からわずかに「五十歳」を越す数字がみられるようになってくる。
 「人生五十年」という言葉が、実感として意識された。
 現在では想像もつかないが、五十歳まで生きられれば、一応「不服もない」ということなのだろう。

 日本が敗戦を迎えた年、平均寿命は
 男‥‥23.9歳
 女‥‥37.5歳
という驚くような数字が記録されている。

 戦時中、三十歳が「老兵」といわれたことも、四十五歳以上の男が老幼婦女子の「老」の部類に入れられ非戦闘員にされたのも、23.9歳という男の平均寿命から考えると、至極当然のことであったことに気づく。

 男の平均寿命が70歳に達したのは昭和46年で、女は11年前の昭和35年に早くも70歳を越えている。

 男女は六十歳になると、暦があらたまって人生をもう一度やり直す新生の年齢だとして「還暦」に達したと称される。
 さらに七十歳に達すると、「古希」と言われた。
 「古来稀:こらいまれ」なる長寿ということである。

 今や60歳は老人とは言いがたい。
 そのような年で死亡した人は、若死にも似た印象さえ受ける。
 また、70歳は「古来稀なる長寿」などとはとても言えぬ。
 
 私の祖父は42歳で死亡した。
 私の現在の年齢よりも8歳若い。
 父の死亡年齢(53歳)も3年後に迫っている。
 戦前の常識から言えば、私の年齢は死を迎えても不思議のない年齢である。

 私はまだ若い部類に入っていると思っているが、四十歳になるかならぬ頃、バーで若い女に「オジサン」と言われ、一時に酔いのさめる思いをした。
 さらに昨年、地方都市の郷土料理店の女に「オトウサン」と言われ、もういけない、と思った。

 平均寿命は伸びているのだ。
 五十歳にならぬ男に、昔風の呼び方はやめてもらいたい。
 せめて「オジサン」程度にとどめて欲しい。





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蟹の縦ばい:吉村昭


● 1997/05


 子供が父親の死を予感しているように、妻も夫の死を予感している。
 統計上、女の寿命が長いから当然のことだが、常に夫の死後のことについて考えている。

 夫の死後、彼女は思いがけぬ自由が自分にあたえられたことに気づく。
 やがて、旅行に出かけるようにもなる。
 一ケ月近くも家をあけたりする。
 民謡の踊りを習い、ヘルスセンターで温泉に入り、舞台で花笠音頭を踊ったりする。
 すべてに気がねすることがないのである。

 夫がいないほうがむしろ経済的には楽だと思うようになる。
 「夫は金を食う動物」であったことに気づくのだ。

 男は老いると気が弱くなる。
 眼におびえに似た光が宿り、声も張りを失う。
 歩く姿もしょぼくれてくる。
 頭を垂れ、疲れたように歩く。

 女はえたいの知れぬ逞しさを身につけてゆく。
 表皮は年ごとに厚くなってゆく「怪獣のように」である。
 まず声が野太くなり、驚くほど大きくなる。
 近くに人がいても、気にかけることをせずに大声で話し合う。
 笑い声も豪傑笑いに似るようになる。
 咽喉の奥までみえるほど口を大きくあけて笑い、眼には世俗体験をしっかり見につけたしたたかな自信にみちた光がうかんでいる。
 足どりも大地をしっかり踏みつけたゆるぎないものになり、一時間以上もたの女性と歩道で立ち話を続けても疲れるようなことはない。
 往き来する車の排気ガスに頭痛をおぼえることもない。

 なぜ、女はこのような逞しさを身につけるのか。

 それは食物に重要な関連があるためだと思う。
 妻は食物を作って夫に与える。
 夫も人間であるかぎり食物を口にしなければ生きてゆけない。

 食べさせる側と食べさせてもらう側の、立場の優劣はあきらかである。
 食べさせてもらう側、つまり夫は長いあいだ食べさせてもらっている間に、自然に食べさせてくれる妻に劣等感に似た感情をいだくようになる。
 「夫は犬に近い存在」だと思う。

 夫は妻にエサを与えてもらう。

 「うちの女房の料理でないと口に合わない」
 などと言って女房自慢する男は、妻の与えるエサにならされているのである。
 他人の差し出す餌には顔をそむけ、飼い主の与えるエサしか口にしない犬と同様である。
 「家庭料理が一番だ」と夫の言う妻が料理上手とはかぎらない。
 むしろ逆の場合さえある。
 つまるところ、その夫は妻のあたえてくれる食物の味に舌がならされてしまっただけにすぎない。

 犬は飼い主に弱々しい眼をむけ、おもねるような仕種をする。
 それは飼い主からエサを食べさせてもらっているからである。
 夫は、長いあいだ食べさせてもらっているうちに、潜在意識ではあるが、妻に対して卑屈感をいだくようになる。
 妻は、犬にエサをあたえる飼い主に似た優越感を身につけるようになる。 

 夫が死亡すれば、やがて日も経て悲しみもうすらぎ、「開放感をいだいて明るい表情」になる。


 もう、「夫にエサをやる必要はない」のだ!




【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



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