2009年11月15日日曜日

2009年11月14日土曜日

浴室:ジャン=フィリップ・トウーサン


● 1992/07[1990/01]


『
抽象的な暮らしの平穏さ

(1).
 午後を浴室で過ごすようになった時、そこに居を据えることになろうとは思ってもみなかった。
 浴槽の中で思いをめぐらせながら、快適な数時間を過ごしていたにすぎない。
 服は着たままの時も脱ぐ時もあった。
 エドモンドソンはぼくの頭の横にいるのを好み、ぼくがまえより晴れ晴れとした様子に見えると言った。
 ぼくが何か冗談を言って、二人で笑うこともあった。
 浴槽はやっぱり縁が平行で、背もたれは斜め、底は平らで足置きを使う必要のないものに限る、などと身ぶりたっぷりに力説したりした。

(5).
 エドモンドソンはついにぼくの母親に訴えた。

(6).
 母さんはケーキを持ってやって来た。
 ビデの上に腰を下ろし、足のあいだに置いた菓子箱の口を大きく開けて、スープ皿の上にケーキを並べた。
 心を悩ませている様子で、やって来てから、ずっと、ぼくの視線を避けている。
 物悲しげに、元気なく頭を下げ、何か言おうとして口をつぐみ、エクレアを一つ選んでパクパク食べた。
 気晴らしをしなければだめよ、スポーツをするとか、わからないけど何かあるでしょ。
 そう言って口の端を手袋で拭った。
 気晴らしの必要があるのかどうかは疑問だな、とぼくは答えた。
 ほとんど微笑さえ浮かべながら、ぼくにとって気晴らしほど恐ろしいものはないんだよ、と付け加えると、母さんはとても話にならないとわかったらしく、ぼくに機械的にミルフィーユを差し出した。

(49).
 ぼくは自問し始めた。
 一体オーストリア大使館のレセプションに出かけていくべきなのだろうか、そこに何があるのだろうか?
 浴槽の縁に腰掛けて、エドモンドソンに、27にもなって、そのうち29にもなろうというのに、浴槽の中に閉じこもりがちの暮らしだなんて、あんまり健康とは言えないな、と話した。
 目を伏せて、浴槽のエナメルを撫ぜながら言った、危険を冒さなきゃだめなんだ、この抽象的な暮らしの平穏さを危険に晒して、その代わりに。
 そこまで言って言葉に詰まってしまった。

(50).
 翌日、ぼくは浴室を出たのだった。
』








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:議論好き


● 1985/03[1984/11]


『
 武士というのは、いわば誇りを背負って生きている。
 それを傷つけるものがあれば、相手が誰であろうと、屈するわqけにはいかない。
 損得や結果を考える必要もない。
 単純明快といえば、これほど単純明快なことはmない。

 議論好き、であることは、お国柄である。
 そのあたりが、薩摩や徴収との違いであり、(板垣)退助がとやかくいっても、いまさら改まるものでもない。
 薩摩人ならば、こんなふうに、喧しく議論しない、
 それに薩摩の言葉というのは、他国に比べて語彙が乏しく、議論に適さないところがある。
 大久保にしても西郷にしても、「かりに」とか「たとえば」というようなことは口にしない。
 これらの言葉は、議論を進める上ではかなり有用なのだが、薩摩人は仮定や比喩を好まない。
 彼らは
 「かりに剣をとれば‥‥」
 などとは言わない。
 剣をとるかとらぬか、二つに一つしかない。
 剣をとったらどうなるか、とらなければどうなるか、結果は考えない。

 長州人はやや違う。
 かれらの言葉は、議論するだけの豊富な語彙をもっており、その一方で、じゅうぶんに行動的である。
 しかし、薩摩のように、年長者が圧倒的な支配力を全員に及ぼすことはない。
 それぞれが独立している。

 土佐においては、まず理非が先に立つ。
 理由がなければ行動を起こさない。
 鳥羽伏見における容堂(山内)の態度がそうであった。
 容堂はあの一戦を私闘とみなし、兵を動かす理由がない、とした。
 容堂を織田信長に比していたが、そのあたりが信長に遠く及ばないところであった。
 革命が成立するかどうかの瀬戸際においては、理非は後まわしにすべきだったのだ。
 「勝てば官軍」なのである。
 しかし、理非が先に立つのは、決して悪いことではない、と退助は思っている。
 議員と言うのは、言論の府なのである。

 日本には、もともと演説によって自分の考えを多くの人に理解してもらうという習慣がなかった。
 それが広く行われるようになったのは明治になってからでえあり、しかも演説会の隆盛をうながしたのは、政府による新聞紙条例の制定からであった、
 反政府的な論説を掲載すると新聞はすぐさま発禁になった。
 そこで、反政府系の論客たちは、筆をとる代わりに弁舌によって政府を弾劾することになった。
 そうするしかなかったといってもいい。
 政府は民権運動に対する弾圧強化の一案として、明治13年に集会条例を公布した。
 政治結社、集会を届出制とし、屋内の集会についても警官を臨席させ、弁士の演説中止や解散の権限を与えた。
 「弁士中止!」
 と警官がどなれば、弁士は演上を下りざqるをえなかった。

 このあと板垣退助は気が遠くなるほど長生きをし、大正8年(1919)7月に83歳で没した。
 彼の死を報ずる新聞を読んだ人々も、まだ生きていたのか、と思ったものが多かった。
』








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2009年11月12日木曜日

孤雲去りて:諫死:三好徹


● 1985/03[1984/11]


『
 諫死(かんし)とは、死を覚悟して主君を諌めることをいうが、厳密には二通りにわかれる。
 一つは、もしその諫死が主君の気に入らなければ、余計なことを言う奴だ、というわけで死罪を言い渡される場合。
 よほどの覚悟がいるわけだが、時によってはそこまでの処分を受けずに済むこともありうる。
 もう一つは、主君に苦言を呈し、もしそれが受け入れられなければ、自ら自決するのである。
 あるいは、受け入れられても、主君に対して非礼を犯したことを詫びて自決することもある。
 もっとも、諌言を受け入れるような賢明な主君ならば、
 「死んではならぬぞ」
 とあらかじめ制止しておくだろう。

 古来、諫死は数多く行われているように思われているが、実際にはさほど多くない。
 諫死は。武家社会のものであり、武家社会は鎌倉期以降に確立された。
 しかし、君臣関係に「忠」という硬直した考え方が導入されたのは、江戸期からである。
 それ以前の武家社会は、一種の契約関係であった。
 理非を問わず無条件で主君に従うことはなかった。
 気に入らなければ浪人し、別の主君を選んでもいっこうに構わなかった。
 二君に仕えず、などという、主君の側に一方的な都合のいい考え方は、幕藩体制を維持するためのものだった。

 諫死の実例としては、戦国時代、織田信長に死をもって諌めた平手政秀が有名だが、これは例外といってよいくらいなものである。
 あるいは長い武家支配の時代を通じて、ほとんど唯一の成功例かもしれない。

 秀吉の朝鮮出兵は、きわめて無謀なものだったが、諫死したものは一人もいなかった。
 徳川時代、たとえば綱吉の「生類憐れみの令」は、恐ろしいまでに残酷でこっけいな布告だったが、これまた諫死した老中も旗本もいなかった。
 本当に「忠」であれば、死をもって主君の愚かな行為をたしなめるのが本道である。
 だが、いかに愚劣な命令であっても、主君に従うのが忠という理屈で、むしろ保身のために使われた形跡すらある。
 要するに、家来たるものが自分の考えを主君に押しつけるのは正しくない、というのだ。
 諫死が、事実上は死語と化していたのは、こうした理由による。
』




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2009年11月11日水曜日

:消え去りゆく武士道


● 2004/01[2003/09]


『
 過去の日本は、まごうことなく武士が造ったものである。
 彼らは「日本民族の花」であり、かつ根源でもあった。
 天のあらゆる恵み深い贈り物は、武士を通してもたらされた。
 武士は社会的に民衆より高いところに存在したが、民衆に道徳律の規範を示し、自らその見本を示すことによって民衆を導いたのである。
 
 歴史の進歩とは「社会一般の間における生存競争ではない。社会の少数派が、大衆を最善の方法で導き、管理し、働かせようとする競争によって生み出される」と語っている(マロック:イギリス社会学者)。
 この説の批評はさておき、この見解は、武士道のわが国の社会発展に貢献してきた事実によって十分に証明される。

 武士道は、その生みの親である武士階級からさまざまな経路をたどって
流れ出し、大衆の間で酵母として発酵し、日本人全体に道徳律の基準を提供したのだ。
 もともとはエリートである武士階級の栄光として登場したものであったが、やがてそれは国民全体の憧れとなり、その精神となった。
 もちろん大衆はサムライの道徳的高みまでには到達できなかったが、武士精神を表す「大和魂:日本人の魂」という言葉は、ついにこの島国の民族精神(エートス)を象徴する言葉となった。
 宗教が「情念の影響を受けた道徳」(マシュー・アーノルド:イギリス批評家)に過ぎないとすれば、世界に武士道ほど宗教と同列の資格を与えられた
道徳体系はない、といっていい。

 大和魂はひ弱な栽培植物ではない。
 自然に生える野生の草木であり、わが国固有のものである。
 ヨーロッパ人はバラの花を賞賛するが、私たち日本人はそれを共有する感覚は持ち合わせていない。
 バラには桜花の持つ「
簡素な純真さ」に欠けている。
 バラはその甘美さの陰にトゲを隠し、執拗に「
生にしがみつく」。
 まるで死を怖れるがごとく、散りは果てるよりも、枝にまとわりついたまま朽ちることを好む、かのようにである。
 バラは華美な色彩と濃厚な香りを漂わせる。
 いずれをとっても、桜花にはない特性である。
 私たちの好む桜花は、自然のなすがままに、いつでもその命を捨てる覚悟がある。
 けっして派手さを誇らず、淡い匂いは人を飽きさせない。
 これほど美しく、はかなく、風の吹くままに舞い散り、ほんの一瞬、香を放ち、永久に消え去っていくこの花が「大和魂」の典型なのか。
 日本人の魂はこのようにもろく、滅びやすいものなのだろうか。

 武士道は、「
無意識の抵抗できない力」として、日本国民の一人ひとりを動かしてきた。
 王政復古の嵐と、維新回天の渦の中で、日本という船の舵をとった偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳的教えをまったく知らない人々であった。
 善きにつけ、悪しきにつけ、彼らを駆り立てたものは純粋で単純は武士道そのものであった。
 ヘンリー・ノーマン(イギリス旅行家)は極東事情を研究し、さらに観察した後、日本がほかの東洋の専制国家と異なる唯一の点についてこう言っている。
「
 人類が考え出したことの中で、もっとも厳しく、もっとも崇高で、かつ厳密な
名誉の掟が、国民の間に影響力を及ぼした
」
 武士道こそ維新回天の原動力だったのである。

 「
劣等国として見下されることに耐えられない名誉心」

 これが日本人の動機の最大のものであった。
 殖産興業という考え方は、そうした過程の中で、後から生まれたものである。
 アメリカ的あるいはイギリス的様式のキリスト教は、たぶんにアングロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでおり、武士道という幹に接ぎ木するにはいとも貧弱すぎる芽である。

 歴史が繰り返されるならば、まちがいなく武士道は騎士道と同じ運命をたどるだろう。
 騎士道は封建制から離れたのち、キリスト教会に引き取られて、新たな余命を与えられた。
 が、日本の武士道にはそのような庇護する大きな宗教はない。
 母体である封建制が崩壊すると、武士道は孤児として残され、自力で生きていかねばならない。
 めざましい民主主義の抵抗しがたい奔流は、武士道の残滓を飲み込んでしまうほどの勢いがある。
 武士道は知性と文化を独占的に支えた人々によって組織された特権階級の精神だった。
 民主主義はいかなる形式、いかなる形態の特権階級も認めない。
 現代の社会勢力は、狭い階級精神の存在を容認しない。
 
 悲しいかな武士道の徳!
 悲しいかなサムライの誇り!
 武士道は、消えてゆく運命にあるのだ。
 社会状況が大きく変わり、武士道に反対するばかりか、敵対するまでになった今日では、武士道にとって「
名誉ある埋葬」を準備すべき時にきている。

 人間の活力をもたらすものは精神力である。
 武士道精神が死に絶えたわけではない。
 見る目を持つある人たちには、それがハッキリみえるはずだ。
 もっとも進んだ思想を持つ日本人の表皮をはいでみれば、そこにはサムライが現れるであろう。

 キリスト教と唯物論功利主義は、世界を二分するであろう。
 小さな道徳体系は、このどちらかに組み込まれて、生き残りをはかるだろう。
 武士道はどちらにつくのであろうか。
 
 武士道は確固たる教義もなく、守るべき公式もない。
 一陣の風であえなく散っていく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。
 が、その運命は決して絶滅するわけではない。
 たしかに武士道は独立した道徳体系の掟としては消え去るであろう。
 が、その力は、この地上から滅び去るとは思えない。
 サムライの気概や民族の名誉の学び舎は破壊されるかもしれない。
 その光と栄光は、廃墟を超えて生きながらえるであろう。

 桜の花のように、四方の風に吹き散らされた後でも。
』






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:切腹


● 2004/01[2003/09]


『
 ミッドフォード(英国の外交官)によって書かれた「旧日本の物語」というものだ。
 彼はその中で、自分自身が目撃した処刑の例を次のように記述している。

《
 われわれ(七人の外国使節)は日本の検視役に案内されて、寺院の本堂へと招かれた。
 --------

 不安と緊張のうちに数分が経ち、やがて32歳の貴品のある偉丈夫、滝善三郎が静かに本堂へと入ってきた。
 彼は礼装姿の麻の裃を着けていた。
 一人の介錯人と、金糸の刺繍のついた陣羽織を着用した三人の役人が彼に付き添った。
 
介錯という言葉は、英語の処刑人という語とは違う、ことを知っておく必要がある。
 その役目は立派な身分のある者が務める。
 たいていの場合は切腹を命じられた一族か友人によって行われる。
 両者の関係は受刑者と処刑人というより、主役と介添え役の関係である。

 咎人は威風堂々といった感じで高座に上がり、祭壇の前で二度礼拝すると、それを背にして赤い毛氈の上に正座した。
 三人の付き添い役の一人が、三宝を持って進み出た。
 その三宝には白紙で包まれた「脇差し」が載せられていた。
 脇差しとは、日本の短刀または匕首のことで、長さは九寸半、その切っ先はかみそりのように鋭い。
 付き添い役は一礼して、この三宝を咎人に渡した。
 滝善三郎はうやうやしく三宝を受け取ると、両手で頭の高さまで押し戴いて自分の前に置いた。

 再度、深々と礼をしたあと、滝善三郎は次のような口上を述べた。
「
 拙者は、ただ一人、無分別にもあやまって、神戸で外国人への発砲を命じ、外国人が逃げようとするところを、再び命じた。
 拙者いま、その罪を負いて切腹いたす。
 ご列席の方々には、検視の御役目御苦労に存じ候
」
 そういうと再度、一礼した。
 
 善三郎は裃を帯のあたりまでするりと脱ぎ、上半身を裸にした。
 慣例に従って、念入りに両袖を膝の下へ敷き、後方へ倒れないようにした。
 身分のある立派な武士は、前向きに死ぬもの、とされていたからである。
 善三郎はしっかりした手つきで、目の前に置かれた短刀を慎重に取り上げ、さも愛しげにこれをながめた。
 それは、しばし最後の覚悟に思いを馳せているかのように見えた。

 次の瞬間、善三郎は短刀で左の腹下に深く突き刺し、ゆっくりと右へ引いた。
 さらに、今度は刃先の向きを変えて、やや上に切り上げた。
 このすさまじい苦痛を伴う動作の間、彼は顔の表情ひとつ動かさなかった。
 そして短刀を抜き、身体を少しばかり前方に傾け首を差し出したとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。
 が、声はまったく立てなかった。
 そのとき、咎人のかたわらに身を屈め、事の次第を終始見守っていた介錯人が立ち上がり、一瞬、白刃が空を舞ったかと思うと、重たい鈍い響きとともに、どさっと倒れる音がして、首は胴から切り離された。
 目前のもはや動かない肉塊から血潮の吹き出る音だけが、静寂を破っていた。

 介錯人は低く一礼し、用意していた白紙で刃の血を拭うと、切腹の場から降りた。
 血塗られた短刀は、処刑の証拠としておごそかに運び去られた。
 検視役が座を離れ、われわれが座っているところに近づき、滝善三郎の処刑の儀式がとどこおりなく遂行されたこと検分あれ、と申し述べた。
 儀式はこれにて終わり、われわれは寺を去った。
》

』






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:武士道の源


● 2004/01[2003/09]


『
 武士道とは、武士の守るべき掟として求められ、あるいは教育された道徳的原理である。
 それは成文法ではない。
 せいぜいのところ口伝で受け継がれたものか、著名な武士や学者の筆から生まれた、いくつかの格言によって成り立っていることが多い。
 いや、それはむしろ不言不文の語られざる掟、書かられざる掟であったというべきであろう。
 それだけに武士道は、いっそうサムライの心の肉襞に刻み込まれ、強力な行動規範としての拘束力を持ったのである。

 また、武士道は、いかに有能な武士であったとしても、その人、一人の頭脳が創造したものでもない。
 あるいは特定の立派な武士の生涯を基にするものでもない。
 それは数十年、数百年もの長きにわたる日本の歴史の中で、武士の生き方として自発的に醸成され、発展を遂げたものなのである。

 武家や武士(戦う騎士)は特権階級であって、元来は戦闘を職業とした猛々しい素性だったに違いない。
 この階級は、長い年月にわたって続けられた戦乱の世にあって、もっとも勇敢で、もっとも冒険的な者の間から自然に選びぬかれ、臆病者や弱い者は捨てられていった。
 やがて彼らは支配階級の一員として、身に付ける名誉と特権が大きくなるに従い、それに伴う責任や義務も重たくなってきた。
 それと同時に、彼らは行動様式についての共通の規範というものが必要になってきた。
 年を重ねるに従い生活範囲が広がり、人間関係が多方面にわたってくると、当初の信念はそれ自身を正当化し、満足させ、発展させるために、より高き権威や合理的な支持を求めるようになる。
 もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとするならば、武士の生活の中に、武士道なる崇高な「道徳律」は生まれなかったであろう。

 まず仏教から論じよう。
 仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。
 それは危難や惨禍に際して、生に執着せず、死と親しむことであった。
 「禅」とはデイアーナ(Dhyana)の日本語訳であり、それは
 「言語による表現を範囲を超えた思想の領域へ、迷走をもって到達しようとする人間の努力を意味する」(ラフカデイオ・ハーン「異国的なものと回顧的なもの」より)。
 その方法は座禅と瞑想であり、その目的は私の理解する限りでいえば、あらゆる現象の根底にある原理について、究極においては「絶対」そのものを悟り、その「絶対」と自分を調和させることである。
 このように定義すれば、その教えは一宗派の教義を超えている。
 この「絶対」を認識し得た者は誰でも、世俗的なことを超越して「新しき天地」を自覚することができる。

 仏教が武士道に与えられなかったものは、神道がそれを十分に補った。
 忠誠、尊敬、孝心などの考え方は神道の教義によって武士道へ伝えられた。
 それによってサムライの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植えつけられた。
 神道の理論にはキリスト教でいうところの「原罪」という教義はない。
 むしろ逆に、人間の魂の生来の善良さと、神にも似た純粋さを信じ、「
魂」を神の意志が宿る「至聖所」として崇めている。
 神社にはその礼拝物がきわめて少ない。
 奥殿に掲げられている「
一枚の鏡」だけが主要なものである。
 なぜ鏡だけなのか。
 すなわち、鏡は人間の心を表している。
 心が完全に平静で澄んでいれば、そこに「神」の姿を見ることができる。
 古代ギリシャのデルフォイの神託、「汝自身を知れ」に通じるものがある。
 国民の崇敬と民族的感情の枠組みとなっている神道は、体系的な哲学や合理的な教義を装うようなことは決してない。
 神道は信者に、何の信仰上の約束も命じない。
 直截で単純な「行為の基準」を与えたにすぎない。

 武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった。
 君臣、親子、夫婦、長幼、朋友についての「五倫」は、日本人の民族的本能が認めていたもので、中国からもたらされた儒教の書物は、それを確認したにすぎなかった。
 冷静で穏和な、しかも世故にたけた孔子の政治道徳の教えは、支配階級のサムライにとっては、とりわけ相応しいものであった。
 孔子の貴族的で保守的な教訓は、武士階級の要求に、著しく適合した。
 儒教では人間と宇宙はひとしく精神的かつ道徳的なものであるとされた。
』






【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



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