● 2006/04[2005/06]
『
東京には、街を歩いていると何度も踏みつけてしまうくらいに、自由が落ちている。
落ち葉のように、空き缶みたいに、どこにでも転がっている。
故郷をわずらわしく思い、親の眼を逃れて、その自由という素晴らしいはずのものを求めてやってくるけど、あまりにも簡単に見つかる自由のひとつひとつに拍子抜けして、それをもてあそぶようになる。
自らを戒めることのできない者の持つ、程度の低い自由は、思考と感情をマヒさせて、その者を身体ごと道路際のドブに導く。
ぬるくにごって、ゆっくりと流されて、すこしづつ沈殿してゆきながら、確実に下水処理場へと近づいていく。
かって自分が何を目指していたのか、なにに涙していたのか。
大切だったはずのそれぞれは、その自由の中で、薄笑いと一緒に溶かされていった。
ドブの中の自由には、道徳も、法律も、まはや抑止する力はなく、むしろ、それを犯すことくらいしか、残された自由がない。
漠然とした自由ほど不自由なものはない。
それに気づいたのは、様々な自由に縛られて身動きがとれなくなった後だ。
大空を飛びたいと願って、それが叶ったとしても、それは幸せなのか、楽しいことなのかは分からない。
結局、鳥籠の中で、今居る場所の自由を、限られた自由を最大限に生かしている時こそが、自由である一番の時間であり、意味である。
就職、結婚、法律、道徳。
面倒で煩わしい約束事。
柵に区切られたルール。
自由は、そのありきたりな場所で見つけて、初めてその価値がある。
自由めかした場所には、本当の自由などない。
自由らしき幻想があるだけだ。
故郷から、かなた遠くにあるという自由を求めた。
東京にある自由は、素晴らしいものだと考えて疑いがなかった。
しかし、誰もが同じ道を辿って、同じ場所へ帰っていく。
自由を求めて旅立って、不自由を発見して帰ってゆくのだ。
五月のある人は言った。
「あなたの好きなことをしなさい。
でも、そこからが大変なのだ」
と。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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