2009年12月7日月曜日

東京タワー:リリー・フランキー


● 2006/04[2005/06]



トンネルを抜けるとそこはゴミタメだった

 春になると東京には、掃除機の回転するモーターが次々と吸い込んでいくチリのように、日本の隅々から、若い奴らが吸い集められてくる。
 暗闇の細いホースは、夢と未来へ続くトンネル。
 転がりながらも胸躍らせて、不安は期待がおさえこむ。
 根拠のない可能性に心ひかれる。
 そこへ行けば、何か新しい自分意なれる気がして。
 しかし、トンネルを抜けると、そこはゴミ溜めだった

 埃がまって、息もできない。
 薄暗く狭い場所。
 ぶつかりあってはかき回される。
 ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる。
 愚鈍にみえる隣の塵も、無能に思える後ろの屑も、輝かしいはずの自分も、ただ同じ、塵、屑、埃。
 同じ方向に回され続けるだけ。
 ぐるぐるぐるぐる、同じゴミだ。
 ほらまた、やってくる。
 一秒前、一年前の自分と同じ。
 瞳を輝かせた
塵、屑、埃。
 トンネルの出口からこの場所へ。
 ここは掃除機の腹の中。
 東京というゴミタメ。
 集めて、絞って、固められ、あとはまとめてポイと捨てられる。

 こんな時代の若い奴らに、自分自身の心の奥から、熱くたぎり出る目的なんかありはしない。
 「夢」という言葉に置き換えて、口にする奴がいたにしても、その「夢」の作り方は、その辺のテレビや雑誌のページをとりあえず、自分のくだらなさに貼り付けただけのもの。
 日本の片隅からのこのこやって来た者などに、目的と呼べるものがあるとすれば、それはただ、東京に行くということだけ。
 それ以外に、本当は何もない。
 東京へ行けば、何かが変わるのだと。
 自分の未来が勝手に広がっていくのだと。
 そうやって、逃げ込んで来ただけだ。


 「貧しさ」は比較があって、目立つもの。
 この街で生活保護を受けている家庭、そうでない家庭、社会的状況は違っても、客観的にどちらがゆとりのある暮らしをしているのかもわからない。
 金持ちが居なければ、貧乏も存在しない、
 東京の大金持ちのような際立った存在がいなければ、あとはドングリの背比べのようなもの。
 誰もが食うに困っているでもないなら、必要なものだけあれば貧しくは感じない。
 
 しかし、東京にいると、必要なものだけしか持っていない者は、貧しい者になる。
 「必要以上」のものを持って、初めて一般的な庶民であり、「必要過剰」な財を手に入れて、初めて
豊かなる者になる。
 "貧乏でも満足している人はお金持ち、
  それもひじょうな金持ちです。
  金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人は、「冬枯れ」のようなものです"
 「オセロー」の中のこんなセリフも、東京の舞台では平板な言葉にしか聞こえない。

 必要以上を持っている東京の住人は、自分のことを「貧しい」と決め込んでいる。
 あの町で暮らしていた人々は、金がない、仕事がないと悩んでいたが、自らを「貧しい」と感じていたようには思えない。
 「
貧しさたる気配」が、そこにはまるで漂っていなかったからである。

 搾取する側とされる側、そういう気味の悪い勝ち負けで明確に色分けされた場所で、個性や判断力を埋没させてしまっている自が姿に、貧しさが漂うのである。
 
必要以上になろうとして、必要以下に映ってしまう
 そこにある東京の多くの姿が貧しく悲しいのである。
 「貧しさ」とは美しいものではない。
 醜いものでもない。
 東京の「見どころのない貧しさ」とは、醜さではなく、「汚」である。





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