2009年12月12日土曜日

:ひまわり畑のおばけ


● 2006/04[2005/06]



 子どもの一日、一日は濃密だ。
 点と点の隙間には、無数の点がぎっちりと詰まり、密度の高い、正常な時間が正しい速さで進んでいる。
 それは、子どもの順応性が高く、
後悔を知らない生活を送っているからである。
 過ぎたるは残酷までに切り捨て、日々訪れる輝きや変化に、節操がないほど勇気を持って進み、変わってゆく。
 「なんとなく」時が過ぎることは、彼らにはない。
 
 大人の一日、一年は淡白である。
 単線の線路のように前後しながら、突き出されるように流れて進む。
 前進なのか、後退なのかも不明瞭のまま、スローモーションを早送りするような時間が、ダリの描く時計のように動く。
 順応性は低く、振り返りながら、過去を捨てきれず、輝きを見出す瞳は曇り、変化は好まず、立ち止まり、変わり映えがない。
 ただ、「なんとなく」時が過ぎてゆく。

 自分の人生の予想できる、過去と未来の分量。
 未来の方が自分の人生にとって重たい人種と、もはや過ぎ去ったことの方が重たい人種と。
 その2種類の人種が、同じ環境で、同じ想いを抱いていても、そこには明らかに違う時間の流れ、違う考えが生まれる。


 人間の能力は、まだ果てしない可能性を残している、のだという。
 その個々の能力の半分でも使えている人はいない、らしい。
 それぞれが自分の能力、可能性を試そうと、家から外に踏み出し、世に問い、彷徨う。
 その駆け出しの勢いも才能。
 弓から引き放たれたばかりの矢のように、多少はまっすぐに飛ぶものだから、それなりの成果は生んでしまう。
 全能力の1,2パーセントを弾きだしただけでも、少しは様になってくる。

 ところが、矢の軌道も孤を描き始める頃、どこからか、得たいのしれない「感情」が滲んでくる。
 肉体もやつれ、なにかしら考えはじめる。
 この先に「幸福」 があるのだろうか、と思い始める。
 能力は成功をもたらしてくれても、幸福を招いてくれるとは限らない。
 こんなことを想い始めたら、もう終わりだ。
 人間の能力に果てしない可能性があったにしても、人間の「感情」はすでに、大昔から限界がみえている。

 日進月歩、道具が発明され、延命の術が見つかり、今の私たちは過去の人類からは想像もできないような「素敵な生活」をしている。
 しかし、数千年前の思想家たちが残した言葉や、大昔の人々が感じた「感情」や「幸福」についての言葉や価値は、笑えるくらいに何も変わっていない。
 どんな道具を持ち、いかなる'環境に囲まれても、「ヒト」の感じることはずっと同じで変わっていない。
 感情の受け皿には、もう可能性はない。
 だから、人間はこれから先も永遠に潜在する能力を出し切ることはできない。
 「幸福」という、ひまわり畑にいるオバケを意識した時から、まだ見ぬ己の能力など一銭の価値もなくなる







【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】



_