2009年12月7日月曜日
:淋しいのではなく、悲しいのでもない
● 2006/04[2005/06]
『
「親子」の関係とは簡単なものだ。
はなればなれに暮らしていても、ほとんど会ったことすらないのだとしても、親と子が「親子」であることに変わりはない。
ところが、「家族」となると、その関係は「親子」はど手軽なものではない。
親子関係は未来永劫に約束されるが、「家族」とは生活という息苦しい土壌の上で、時間をかけ、努力を重ね、時に自らを滅しても培うものである。
しかし、その賜物も、たった一度、数秒のいさかいで、いとも簡単に崩壊してしまうことがある。
「親子」は足し算だが、「家族」は足すだけでなく引き算もある。
「親子」よりも、さらに、簡単になれてしまうのが「夫婦」と言う関係。
ふざけた男と女が、成り行きで親になり、しかたなく「家族」という難しい関係に取り組まなくてはいけなくなる。
ことなかれにやり過ごし、ホコリは外に掃きださずとも、部屋の隅に寄せてさえおけば、流れてゆく時間がハリボテの「家庭」くらいは作ってくれる。
しかし、ひびの入った茶の間の壁に、たとえ見慣れて、それを笑いの種に変えられたとしても、そこから確実にすきま風は吹いてくる。
笑っていても、風には吹かれる。
立ち上がって、そのひび割れを埋める作業をしなくてはならない。
そのひび割れを、恥ずかしいと感じなければいけない。
恐ろしく面倒で、重苦しい「自覚」というもの。
その自覚の欠落した夫婦が築く、家庭という砂上の楼閣は、シケ(時化)ればひと波でさらわれ、砂浜のに家族の残骸を捨ててゆく。
砂にめり込んだ貝殻のように、子どもたちはその場所から、波の行方を見ている。
淋しいのではなく、悲しいのでもない。
それはとてつもなく冷たい眼である。
言葉にする能力を持たないだけで、子どもはその状況や空気を正確に読み取る感覚にたけている。
そして、自分がこれから、どう振舞うべきかという演技力も持っている。
それは、弱い生き物が身を守るために備えている本能だ。
「夫婦にしかわからないこと」、よく聞く言葉だ。
しかし、「夫婦だけがわかってない、自分たちのふたりのこと」を、子どもや他人は涼しい眼で、よく見えているということ、もありうるのだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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