2009年10月27日火曜日

:「日本最後の文人」ドナルド・キーン


● 1995/05



 Donald Keene の "On Familiar --- A Journey Across Cultures"(Kodansha International,1994)を一気に読んだ。
 これはドナルド・キーンの自伝である。
 日本文学と世界文学の交感の記録でもある。
 日本と世界が知性と感性によって結ばれてドラマといってよい。
 日本の精神が発見され、普遍化されていく20世紀の一つの精神史といってもよい。

 30年前に、中央公論社が80巻におよぶ『日本の文学』を刊行したとき、キーンは谷崎潤一郎、川端康成、大岡昇平、三島由紀夫らとともに7人の編者の一員として加わった。
 キーンを除き、いまはいずれも故人となった。
 これらの大作家たちとの交友のくだりは興味が尽きない。

 谷崎潤一郎の自宅に招かれた際、『『陰翳禮讚』で日本の伝統的な便所に美について講釈したこの大家の家のトイレはどうなのか、「何が何でも必要というわけではなかったが」トイレを借りたところ、「真っ白に光るタイルの便器だった」話。
 三島由紀夫の4部作『豊饒の海』という題名について、なぜそうしたのかというキーンの書面での質問に対して、三島は「この海は乾いた海なのです」と書いてよこした。
 三島はかってキーンに、切腹の際の介錯の練習をしていると話したことがある。
 能でも狂言でも日本では何事にも流派があるので、キーンは少しふざけて「何派のですか」と聞いたところ、三島はニコリともせずに「小笠原流です」と答えた。

 三島由紀夫も安部公房も、例えば『宴のあと』『サド侯爵婦人』、そして『棒になった男』『友達』のようなキーンの定訳(この言葉は英語からの翻訳なのだろうか。definitive translationのそれこそ「定訳」なのだろうか)によって、世界に広く知られるようになった。
 が、キーンによれば、どの翻訳も難行苦行の連続なのだという。
 かろうじて楽しいと感じつつ翻訳したのはわずかに2作、兼好法師の『徒然草』(Essays in Idleness)と太宰治の『斜陽』(The Setting Sun)で、この場合に限って「ほとんど自分の本を書いているような感じで翻訳した」。

 太平洋戦争中、キーンは海軍焼香として日本人捕虜の尋問に当たった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神教育を施されていた捕虜たちに、キーンは日露戦争のとき、日本軍は捕虜になることを認めていた、という話をした。
 ハワイ大学図書館に言って、ロシア軍の捕虜となった日本兵士の話について記した本を見つけてきたのだ。
 そこでは、日本軍捕虜たちが「ウオッカの配給をお願いしたい」「スケート遊びを認めて欲しい」と陳情したなどというエピソードが書かれていた。
 これらの捕虜たちが戦後の日本の再建にとって重要な働きをするだろう、それを何とか手伝えないものかと念じての、いわば義侠心からだった。
 もっともこうした努力は「連中をなぐさめるより、かえって捕虜収容所の宙ぶらりん生活に適応するのを難しくしたかもしれないが」と、書き添えている。

 キーンはまことに日本最後の文人と呼ぶにふさわしい。
 学者にならなかったら、日本文学を生涯の伴侶としなかったら、おそらく京都の旅行ガイドになるくらいしかなかっただろう、と例によってへりくだってみせる。
 キーンの好きな言葉は芭蕉の
 「終(つい)に無能無才にして、この一筋につながる
である。
 この一筋の透明にして、まろやかな精神の糾(あざな)い。









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