2009年10月24日土曜日
世界ブリーフィング 同時代の解き方:船橋洋一
● 1995/05
『
映画「タクシードライバー」で最も鮮明に覚えているシーンは、ニューヨークのタクシードライバーのトラビス(ロバート・デ・ニーロ)が買い入れたハンドガンをうっとりと眺めるところだ。
黒光りする銃身をさすり、頬につけ、愛撫する。
鏡に向かって早撃ちのまねをしては、ガンマンを夢想していく。
カメラがメタルの妖しげなまでの光沢をとらえて離さない。
濡れた光沢、英語でいう「sleek」。
大都会にひとり疎外され、漂流する男が、ひとかどになろうとする。
巨大な管理社会、そして階級社会の壁を突き破る最後の手段は、ハンドガンだった。
トラビスは、大統領選候補者を暗殺しようとするが果たせない。
レーガン大統領を暗殺しようとしたヒンクリーは、この映画を見て、反抗を思い立った。
アメリカの映画は、「拳銃片手に生まれた」ようなものである。
西部劇の古典、「大列車強盗」が世にでたのが1903年。
画面いっぱいに銃口が映り、引き金にかけた指がゆっくり動く。
次の瞬間、もうもうとした煙がひろがった。
観客は、腕で顔をおおい、身をのけぞらした。
アメリカの映画のリールにやきつく「銃口文化:gun culture」は、この映画から始まったといわれている。
「ウインチェスター銃73」「ガンスモーク」「OK牧場の決斗」「ライフルマン」などの拳銃映画が生まれた。
1960年代は、「ボニーとクラウド(俺たちに明日はない)」。
1970年代、「タクシードライバー」もこの時代の作品だが、なんといっても「ダーテーハリー」だろう。
クリント・イーストウッドが使ったのは、「モデル129 スミス&ウェッソン」と、「.44マグナム」だった。
封切り直後から、この2種の銃は爆発的売れ行きとなった。
ケネデイ暗殺の後は、オズワルドが使用したライフル銃が全米のガン・マニヤの人気を博した。
レーガン暗殺未遂の際も、ヒンクリーの用いたハンドガン(RG .22)が、その後飛ぶように売れた。
1980年代に入ると、画面に出てくる銃はより大型化する。
「AK-47」であり、バズーカ砲であり、ショットガン(レミントン870)である。
その一つが「ターミネーター」で、レミントン870を肩に下げたリンダ・ハミルトンは、女性の武装化と銃文化への女性取り込みのシンボルだった。
1990年代になると、冷戦イデオロギーの揺らぎ、軍事経済・軍事社会の解除、銃規制を求める圧力の増大が、映画にも影を落とすようになった。
銃を「equalizer:平等屋」と呼び、かってはコルトを、80年代のレーガン時代はミサイルをいずれも「peacemaker:平和屋」と名づける国である。
自由と平等のどちらも銃によって表現されうるとの神話を、いまなを信じたいのだろう。
「神は人間を創りたもうたが、サミュエル・コルトが人々を平等にした」
西部開拓史の頃、人々はそう言ったものである。
(1994/06/17)
注].サミュエル・コルト: 「コルト45」拳銃の生みの親
』
この本、上記のように1992/01/31から1995/04/07にかけて発表されたもので、ほぼ15年前のものになる。
15年といえば、はるか昔の話。
変わりまくったのが昨今。
要は、変わらなかった部分に今読むこの本の面白さがある。
民主主義国家アメリカ、これまるで変わっていない。
いまだに「スーパーチュースデイ」なるものをやっている。
スーパーチュースデイーとは大統領選挙の投票日のこと。
簡単にいうと「大統領選挙日は火曜日です」ということ。
どこの民主主義国家に「火曜日」を選挙日にする国があるか。
一般庶民が火曜日に仕事を休んで、投票するか?
仕事を休めるか?
誰が考えても分かること。
それを改正しない、アメリカ人。
あのロシアでさえ、日曜日だ。
それで人権主義なるものを掲げている。
民主主義、ウソも休み休み言え、ということ。
ちょっと、冷静になればすぐに分かるアメリカの身勝手主義。
つまるところ、金持民主主義、成り上がり民主主義、金融民主主義。
ビンボー人は、選挙にはいけない、ように作られているということ。
ビンボー人は、黙っていろ、ということ。
ビンボー人は、金持ちの駒、でしかないということ。
ビンボー人は、文句を言わずにもくもくと働いていればそれで十分だということ。
ビンボー人は、銃をかついで戦地へ行け、ということ。
戦地にはいくらでもビンボー人を送り込める、ということ。
ビンボー人のストックを十分もてるように作られた民主主義だということ。
それが、アメリカ式民主主義。
日本の、そして世界の民主主義とはまるで違っているということ。
非常に特殊な民主主義の信奉者だということ。
「超ゲテモノ民主主義」だということ。
それを、どもマスコミも口をぬぐって言わない。
つまりマスコミもエリート主義だということ。
マスコミなんてそんなものよ。
ケセラセラ、の世界だということ。
生きていくためには、正直に書き過ぎてはいけない、ということ。
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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