2009年10月27日火曜日
:毛沢東と鄧小平
● 1995/05
『
カネと情報の浸透力にかけては、中国人にかなう民族は(おそらくアングロサクソンを唯一の例外として)いないだろう。
これに味(中華料理)の浸透力を加えれば、中国人は「世界一」だろう。
毛沢東は不眠症に悩まされていた。
水泳を好んだが、これはもとはといえば眠りたいがために、自らを疲労困憊させるための苦肉の策だった。
重大な政治闘争、つまり権力闘争を迎えると、眠れなくなる。
眠れないと中国の古典をひもといた。
そこに記されている権力操縦、術策を貪った。
毛沢東は神経衰弱にもかかっていた。
これは「共産党病」といってよい。
それは、抜け道のない社会が引き起こす病気だ。
共産党人間のパラノイアは、おそらく「何事も説明できる」との共産主義イデオロギーとも関係しているかもしれない。
森羅万象「ただ起こった」、ということはなく「だれかが、どこかで、仕掛けた」結果だと、この教義は説く。
ひとことで言えば、「陰謀理論」なのである。
それぞれに、「過去を消す」衝動をもっていたことも共通する。
ヒトラーは自分の祖父にユダヤ人の血が混じっていたのではないかと恐れていた。
スターリンはロシア人ではなく、グルジア人だった。
毛沢東は豊農に近い階級の出だった。
ユダヤ人抹殺、少数民族に対する圧政、富農階級の撲滅は、こうした衝動に突き動かされたのではないか。
3人とも家族の温もり、団欒にはまったく無縁だった。
毛沢東は死ぬまでハーレムの女性とに淫靡な快楽と悦楽を求めた。
しかし、いずれも最大の病気は、政治に対する中毒症状ではなかったか。
宗教ではなく、政治がアヘンとなった。
20世紀はそれによって全身中毒となった3人のモンスターによって、そしておそらくは6千万人を超える犠牲者の巨大な規模によって記憶されるだろう。
この1993年12月26日を、鄧小平は特別の感慨を持って迎えることだろう。
毛沢東の生誕100周年に、その日は当たる。
北京では、1つ「1万ドル」もする金の記念硬貨が発売された。
中に南アフリカ産のダイヤモンドが埋め込まれている。
毛沢東の生前の肉声演説を録音したCDも売り出され、またたく間に売り切れた。
これは、新中国建国のとき、天安門で行った建国宣言をはじめ、7演説を収録した。
将来の値上がり益を期待しての投機的買占めもあったらしい。
たしかに、毛グッツ大流行には違いないのだが、どれもこれも、商売のにおいがプンプンする。
ダレもカレもが、毛沢東にあやかって、ひと儲けしてやろうと、目の色を変えている。
鄧小平は、「毛沢東は、7割が誤り、3割が正しかった」と総括している。
7割までが間違いのものに、こうまで人気が集まるのは、共産党としては困る。
しかし、どうだろう。
当の鄧小平は、案外、一人「ほくそ笑い」しているのではなだろうか。
これによって、「毛沢東神話」が蘇ることは2度となくなったと、読んでいるに違いない。
神聖であるべき毛沢東、神妙であるべき毛沢東崇拝が、商品化され、市場化されている。
それこそ、鄧小平路線の毛沢東路線に対する最終的勝利でなくして、なんであろう。
外に対する好奇心と、外から学ぼうとする姿勢が鄧小平にはある。
そこが毛沢東とは異なる。
死の直前まで、ハーレムの女性とのセックスに明け暮れた孤独な毛沢東とは大違いだ。
しかし、一番の違いは、鄧小平は、降格させたり、解任したり、批判した相手を、辱めることはしなかった、ということである。
胡ヨウ邦失脚のさいには、総書記の職は解いたが、政治局常務委員には残した。
後任の趙紫陽解任の場合も、「反党分子」として処分しようとの圧力に抵抗し、党籍は守った。
毛沢東は、政敵には容赦しなかった。
劉少奇を」いたぶり、辱め、殺すのを放置した。
鄧小平は「ソク隠の情け」の大切さを、文革の教訓として心に深く刻んだのだろう。
ただ、文革からは、もう一つの教訓も導き出したようである。
1989年6月4日の天安門事件に先立つその年の2月、北京を訪れたブッシュ大統領に、次のように言っている。
「もし、10億の民のこの国で、多党間の選挙が行われたら、われわれは文革のときのような大規模な内戦に、間違いなく突入するだろう」
共産党の一党独裁を死守することにかけては、鄧小平はいささかも譲らなかったし、妥協しなかった。
にもかかわらず、鄧小平は毛沢東より、はるかに広く深く、共産党の権力基盤を掘り崩してしまった、といえるだろう。
文革は、党の威信を失墜させたが、基盤まで侵食したわけではない。
が、経済改革と市場導入は、それを押し流そうとしている。
市場は、いずれ党の独裁を下から突き崩すだろう。
とどのつまり、下部構造(経済)が、上部構造(政治)を規定するのではなかったか。
』
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