2009年10月23日金曜日
:死の匂い・奇蹟物語
● 1973/06
『
私は「ユダの荒野」に眼をやった。
埃をかぶった茨(ラタブ)だけが点々とはえている荒野は、ところどころに白っぽく皺をつくって(それは塩をふいているのだそうである)、遠い山まで拡がっている。
遠い山はいずれも駱駝のようにうずくまっていた。
髑髏(されこうべ)に似た山もあれば、風雨に腐った木の根そっくりの山もあった。
ひからびた動物の死骸を思わせる山もあった。
もし季節が夏で強烈な陽が荒野と山を焼きつけていたならば、別の印象を受けたかもしれぬが、この4月の午後の光のなかで、私は湖も荒野も山もただ老い朽ち果てているような気がした。
湖からも荒野からも風化された山からも「死の匂い」を私は嗅いだ。
「夏にここに来てみろ」
「夏に来たの」
「来たさ。すさまじい暑さで、車は溶鉱炉のようだった」
「そしてそのほかは、死の匂いがするだけだな」
「そうだ」
「ぼくのように、初めてここに来た者にもわかるよ。
ここでは生きるためには、何か烈しく怒っていなくちゃならないな。
何かを強く畏れなくちゃならない」
「ここでは、神は烈しく怒り、裁き、罰するんだ」
腰に革帯を締め、イナゴと野蜜しか食べなかった預言者たち。
『荒野に呼ばわる』と聖書に書かれたその声を聞く者たちは、世界の終末を信じるためには、この荒涼たる風景に眼をやればよかったろう。
神の怒りを感ずるためには、空を仰いで白く燃える太陽を見れば足りたろう。
「俺たち日本人には従いていけぬ世界だな」
「なぜ」
「ここには」と私は答えた。
「さっきから感じているんだが、人間への愛とか、優しさがまったくない」
「こんな場所で、神の怒りと畏れだけで生きた教団の中で、イエスは何を求めたんだろうね」
「あんたの今、言った「人間への優しさ」だろう----
つまり、彼は荒野の信仰と律法(トーラ)が創りだした神のイメージに耐えられなかったのだろう。
彼は神とは何かを求めてここへ来たんだが、怒ったり罰したする神しか教えられなかったんだろう」
「彼は長血の女や盲の男たちを、奇蹟で本当になおしたのだろうか」
「奇蹟?-----奇蹟などイエスの生涯になかったさ」
「それなら-----聖書のあの奇蹟物語は、なぜあるんだ」
「俺は奇蹟物語を読むたびにね、ガリラヤの人々がイエスに求めものは、「奇蹟だけだった」のだと思うな」
「どいう意味だ」
「ガリラヤの住民たちは、イエスから「愛」などという眼に見えぬものより、現実的な奇蹟の方を欲しがったんだよ。
びっこを治してくれ、熱病で死にかかった子どもを生きかえらせてくれ、盲の眼を開いてくれ------それ以外をイエスに求めなかった、ということだよ」
私は眼をつぶって、言うとおりだろうと思った。
私だって、もしその時、イエスにめぐりあっていたならば、彼らと同じ気持ちになっただろう。
「あんただって、あの奇蹟物語を本気で信じていないくせに。
華やかな奇蹟物語は、あとでイエスをを神格化するために、各地の伝承を「聖書作家」が織り込んだものだ。
だがその奇蹟物語の隙間隙間に、人々や弟子からも見棄てられたイエスの話が突然出てくる。
それが事実だよ。
本当のイエスの姿さ。
イエスがもし力ある業(わざ)を見せたとするなら、なぜ見棄てられ、ガリラヤを追われたのか」
「それはどこに書いてある」
「ヨハネ、6章67節------この後、弟子たちは、多く去りて、もはやイエスに従わざりき。
マタイ、11章21節。
開いてみろよ、イエスが自分を見棄てたガリラヤの町々を歎く声が書かれている」
』
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