2009年10月14日水曜日

脱出:吉村昭


● 1989/07[1982/07]



 解説:川西政明 昭和63年10月
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 記憶に残っている話から書いておきたい。
 それは吉村昭の人と文学を考えるとき浮かんでくる消しがたい一つのイメージのことである。

 吉村昭に「標本」(「文芸」昭和60年11月号)という短編がある。
 38年前、「私」は肺結核治療の手術で胸郭成形手術で5本の肋骨除去の手術を受けた。
 その手術を受けた医師から肺結核治療の手術で除去した骨が大学病院の医局の標本室に保存されていると知らされる。
 「私」はその保存された骨を見に出かける。

 この作品を読みはじめたとき、あるショックを感じた。
 骨を見に行く。
 吉村さんは骨を見に行くのか、と感じたのである。 
 手術のさい骨膜は残されたので、その後、「私」の骨は再生された。
 このため骨の機能には障害はない。
 今や除去された骨は、「私」には何の意味もないものになっている。
 その骨を見に行く。
 その言葉に、不意をつかれるものがあった。

 当時の手術は残酷で、4,5時間を要する手術が局所麻酔だけで行われた。
 途中、麻酔が切れてしまうため、患者は耐え難い激痛に襲われる。
 「私」もまたその苦痛に耐えたのだった。
 《私は、死をまぬがれたい一心で手術を受けたが、想像を絶したすさじい激痛に、二度とこのような体験は味わいたくないと思っていた。》
 吉村はこのように書いている。

 この骨のことが、なぜか気になった。
 38年前、「私」は5本の肋骨を切断する乾いた音をきき、シャーレに捨てられた、水々しい光沢をおびたひねを見た。
 手術直後に眼にした骨は生きて見えた。。
 今、時をへだててみる骨は、「私」とという存在とは無関係なものでしかなかった。
 この骨は、過去も未来も消失して、現在という一瞬にすべて凝縮して、今・ここに「私」は生きているという充実したときを告げているように思われた。
 すべて好し、「私」は今・ここに生きている。
 人はこのようにはなかなか自分を確認できないものである。
 ところが、はからずも吉村昭はこの骨を見ることによって、そのように今・ここにある「私」を発見したのだった。
 骨はそのように「私」を確認するひとつの象徴であった。
 だが、その一方でその骨は、激痛のなかで「私」から切断されたモノでもあった。

 吉村昭はそうした人間の苦痛を知っている。
 そしてそのことは、人間の苦痛の中を這い回って「今・ここ」という場所に到達しうるのである、ことを教えてくれる。
 苦痛を経験して生き延びてはじめて、人は心が自由になって、よくモノが見えるようになるのである。
 「昭和」という時代を生きたわれわれ日本人にとっての最大の苦痛は、戦争であったというよう。
 敗戦という苦痛を通過することによって、日本人は「昭和」という時代の苦痛を償ったのだった。

 『秋の街』の「あとがき」で吉村昭は、
 「
小説の本来の姿は、現実の可能性の上に創造をおこなうものだ
 という信念から「虚構小説」を書き続けてきたのだと言っている。
 「私」のことを書くのも、他人のことを書くのも、同じように現実の可能性の上に創造を行う行為であろう。
 自分のことから出発するのは、あらゆる作家の通有事である。
 だが、それだけでは、どうしても世界は狭くなる。
 それを自覚する本来の作家は、だから自分から出発しながら「
自己の他在化」、あるいは「他者の自在化」へと踏み出してゆかざるをえない。
 作家は現実の閾(いき)の向こう側へまで、自由自在に踏み込んでゆける人間である。
 吉村昭は他者の世界に大胆に踏み込む。
 同時に彼は他者の生きてきた世界を大切にする。

 そのために徹底した調査・取材が行われるようだ。
 ここに集められた5編も事実の綿密な調査の上に、人間の可能性を追求したものである。
 この」うち4編に共通するのは、戦争に遭遇し、苦痛をなめるのが、いずれも少年だということである。
 少年たちは、ある日、不意に、「戦場」に投げ出されてしまう。
 吉村昭は、その少年の上に流れた時間は「空虚な時間の流れでしかなかった」と書く。

 苦痛を意識するとき、人はその苦痛に耐えられない。
 苦痛を意識する暇なく、人はその’苦痛の時間を通過させ、「生き延びるよりほかに生きる方法はない」。
 そして二度と経験したくないようなその時間を通過してしまったとき、それは空虚な時間の流れに変化するのだ。
 苦痛は負の力である。
 だが、その力が生の原動力でもあるのだ。
 少年は、生きる=生き延びるという生命の源泉の時間をそのとき同時に生きたからだ。







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