2009年10月23日金曜日

死海のほとり:駄目な男、責任能力のない男:遠藤周作


● 1973/06



「君もイエスを見棄てたのか」
「見棄てなどしないさ。見失ったんだよ」
「君は長い間、聖書を勉強してきたのに」
「だからイエスも見失うさ」
「長い間、イエスの生涯も姿も聖書に書かれてあるそのままだと信じてきた。
 だが、勉強が進むにつれ、聖書に描かれたイエスの生涯も言葉も、事実というより原始基督教教団が神格化し、創られたものだとわかってくる。
 そこから、後世の信仰が創りだした聖書のイエス像を丹念にのけて、本当のイエスの生涯だけを見つけようと考えて、ここにやってきた」
「その勉強がどうなった」
「この町で、本当のイエスの足跡が瓦礫の中に埋もれて、何処にも見当たらなぬように、聖書のなかでも原始基督教教団の信仰が創りだした物語や装飾が、本当のイエスの生涯をすっかり覆いかくしている。
 俺のやった勉強は、聖書考古学者の発掘みたいなものでね」
「どうして」
「考古学者が瓦礫を掘り下げ、この破片がイエス時代のものか、もっと新しいものか、ひとつひとつしらべるように-----こっちも長い間、聖書の中から後世に作られたものと、本当のイエスが語ったり行ったりしたものを分けてみたんだ。
 マルコやルカやマタイが「どういう材料」を、「どう使って」、「どういう風に」書いたか。
 その材料は「どこまで史実」に即しているのか。
 創作か、伝承か-----。
 そうした伝承や創作の部分を、忍耐強く取り除き、濾過した純粋なものを探す仕事だ。
 それで得た結果は-----ほんの一握りのイエスの足跡だけでね」
「一握りのイエスの足跡でも、確実なことなんだろ」
「ああ、一応は確実だと思うよ

「どこから始めるの。ベトレヘムから?」
「ベトレヘム?
 ベトレヘムでイエスが生まれたなんて-----原始基督教教団やマタイ福音書やルカ福音書が、イエスを神格化するために作った話だよ。
 イエスがナザレで育ったというほか、我々には確実なことは何もわかっていない-----」
「じゃ、何処へ連れていってくれる」
「そうだな。
 ユダの荒野にでも行くか。
 エルサレムから車で1時間ほどの荒涼とした砂漠で、イエスがヨハネ教団に身を投じて修行した場所であることは確かだ。
 そこから出発すれば、イエスの本当の姿は少しずつわかるかもしれんし-----」
「イエスの本当の姿って、どんなものだ」

「イエスの従兄弟は長い間、イエスを馬鹿にしている。
 かれが家庭生活で「
駄目な男」だったからだ。
 親類たちもやがて、イエスを「
責任能力のない者」と扱うようになっている」
「そんなこと何処に書いてある」
「マルコ伝の3章21節や、ヨハネ伝の7章5節がふと洩らしている。
 ある学者は彼が家族から責任能力のない者にされたとさえ言っている。
 聖書の中のこんなふと書かれた記述が、事実のイエスを知る上に大切な手がかりになる」







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