2009年10月17日土曜日
冷い夏、熱い夏:日本人の死生観:吉村昭
● 1990/06[1984/07]
『
欧米人の死生観と日本人のそれに、「基本的な相違」があることを意識したのは、心臓移植手術を素材にした小説の資料を得るために、南アフリカ、ヨーロッパ、アメリカを旅行したときであった。
外科医、心臓移植をうけた患者、提供者の遺族たちに会い、資料の蒐集につとめる間、私は、欧米人が生と死に対する特異な考え方を持っていることを知り、やがて特異なのは日本という極東という島国に住む自分たちであることに気づいた。
南アフリカの外科医バーナードが最初に心臓移植を行ったワシカンスキーという技師は、18日後に死亡したが、私は、心臓を提供した若い女性の父であるダバル氏をその自宅に訪れた。
私が、ワシカンスキーが死亡した折の感想を求めると、氏は、
「娘は交通事故で死亡したが、肉体の一部がワシカンスキー氏の体内で生きていると思って、自らを慰めてきた。しかし、彼の死によって娘も完全に死んでしまい、悲しくてならない」
と、波がぐんで言った。
私は、その言葉に、同じ地球上に棲みながら、私たちと異なった考え方をしている多くの人たちがいるのを感じた。
私が同じ立場であったとしたら、ムスメの心臓のみが独立して他者の体内で生きていることに、堪えきれぬ「無気味」さを感じるだろう。
移植患者が死んだことを知れば、娘の心臓も動きを止め、完全に死の世界に同化した安堵に似たものを抱くはずだ。
氏は、人体を多くの部品によって組み立てられた機会のように考え、心臓-部品が動いていることは、娘の一部が生きていると考えているらしい。
それとは対照的に、私たちの死に対する考え方は、はるかに情緒的なもので、人体は決して物体ではなく、死は「やすらぎ」を意味する。
死は、或る瞬間に「犯し難い確かさ」で定まり、その直後から死者は「追憶の世界」に繰り込まれる。
北海道の一漁村で耳にした挿話も思い出された。
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やがて埋葬されたアメリカ人飛行士の置いた母が来日し、通訳とともに村を訪れた。
彼女は、遺品の十字架のペンダントを眼にして、埋葬されているのが息子の遺体であることを確認した。
村では遺体を掘り起こして焼いて渡したが、彼女が抱きしめて離さなかったのはペンダントで、遺骨への関心は薄く、車のトランクに無造作に入れて去ったという。
彼女にとって、遺骨は単なる物質にすぎず、ペンダントに息子の思い出の多くを見たのだろう。
欧米人の死生観との相違は、日本人の「遺骨収集」という行為に端的に表れている。
戦後35年もたつのに、南方の島々に遺骨収集団が赴くが、そのような行為は日本人のみに限られている。
ペンダントを抱きしめたアメリカ婦人と同じように、欧米人は朽ちた遺骨など、なんの意味もないのだろう。
これらの事柄から考えても、日本人と欧米人とは基本的に死と生に対する観念がことなっている、」と考えていいのではないだろうか。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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