2009年10月17日土曜日

:延命というより、少しでも楽に、


● 1990/06[1984/07]



 院長の眼に視線を据えると、
「常識的にみて、あとどのくらい持つとお考えですか。半月でしょうか」
 と、思い切って問うてみた。
「いえ、そんなに早くは‥‥」 
「それでは1カ月ぐらい」
「どうも申し上げかねますが、もしかすると‥‥」
 院長は、足元に視線をおとした。
 弟が味わっている苦痛はまだ序の口で、さらに想像を絶した激烈なものになり、それは死の瞬間までつづくのかも知れない。
 私は、しばらく黙っていたが、院長をフタ食べ見つめると、
「医師としてのお立場がおありでしょうが、兄としては、延命というより、少しでも楽に、ということを願っております」
 と、言った。
 院長は、無言で何度もうなずき、少し間を置いて、
「お気持ちはよくわかります」
 と、答えた。
 一般的には非情とも言える以来を院長にしたが、私に悔いはなく、むしろ当然のことを口にしたという気持ちが強かった。

 幼い頃から何度か肉親の死に接してきたが、通夜、葬儀の情景がその部分だけ照明をあてられたように鮮やかな記憶として残っている。
 四歳の夏に姉が病死した通夜には、多くの人が家に集まったことに興奮してはしゃいでいた。
 
 小学校に入ってまもなく祖母が脳溢血で死亡した折には、口、鼻に脱脂綿を詰められた死顔に意識を失いかけるほどの恐怖におそわれた。
 中学校2年の夏には四番目の兄が死んだが、戦場での死であったので、それを告げる公報と送還されてきた遺骨で無理に死を納得させられた感じであった。
 終戦の前年の母の死は、私に初めて死というもののもつ意味について考える機会を与えてくれたように思う。
 その頃、私は肺結核の再発で奥那須の温泉宿に療養に行っていたが、配達夫から渡された「ハハシス」という電報用紙の片仮名文字に、為体の知れぬ可笑しさが抑えきれぬほどの強さでこみ上げてくるのに狼狽した。
 その思いがけぬ感情は、いつの間にか胸に根を張っていた、自分の母だけはなぜか死ぬことはない、という稚い信念が裏切られたことによって生じたものであった。
 それは、私が死を観念としてしかとらえていなかったことを示している。

 やがて私は、結核の3度目の発病で病臥する身になったが、手術台に縛り付けられてメスを加えられ、肋骨を切断されている間、時間というものの重い存在を実感として意識した。
 局部麻酔のみによる手術のため激痛につぐ激痛が押し寄せる中で、私は泣きわめきながらも唯一の救いを時間の流れに求めた。
 時間は確実に経過し、それによっていつかは苦痛から解放される時がやってくると考え、事実、5時間後には期待通り手術台から離れることができた。
 時間の存在を身にしみて知った私にとって、死は観念の世界のものではなくなった。
 人間の生命は時間の流れとともに推移し、ある瞬間、弦が音を立てて切れるように、死の中に繰り込まれてゆく。
 死は決してまぬがれられるものであり、生きていくということは、一刻一刻死への接近を意味している。
 誕生したばかりの新生児すら、すでに死への歩みをはじめている。










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