2009年10月27日火曜日
:「日本最後の文人」ドナルド・キーン
● 1995/05
『
Donald Keene の "On Familiar --- A Journey Across Cultures"(Kodansha International,1994)を一気に読んだ。
これはドナルド・キーンの自伝である。
日本文学と世界文学の交感の記録でもある。
日本と世界が知性と感性によって結ばれてドラマといってよい。
日本の精神が発見され、普遍化されていく20世紀の一つの精神史といってもよい。
30年前に、中央公論社が80巻におよぶ『日本の文学』を刊行したとき、キーンは谷崎潤一郎、川端康成、大岡昇平、三島由紀夫らとともに7人の編者の一員として加わった。
キーンを除き、いまはいずれも故人となった。
これらの大作家たちとの交友のくだりは興味が尽きない。
谷崎潤一郎の自宅に招かれた際、『『陰翳禮讚』で日本の伝統的な便所に美について講釈したこの大家の家のトイレはどうなのか、「何が何でも必要というわけではなかったが」トイレを借りたところ、「真っ白に光るタイルの便器だった」話。
三島由紀夫の4部作『豊饒の海』という題名について、なぜそうしたのかというキーンの書面での質問に対して、三島は「この海は乾いた海なのです」と書いてよこした。
三島はかってキーンに、切腹の際の介錯の練習をしていると話したことがある。
能でも狂言でも日本では何事にも流派があるので、キーンは少しふざけて「何派のですか」と聞いたところ、三島はニコリともせずに「小笠原流です」と答えた。
三島由紀夫も安部公房も、例えば『宴のあと』『サド侯爵婦人』、そして『棒になった男』『友達』のようなキーンの定訳(この言葉は英語からの翻訳なのだろうか。definitive translationのそれこそ「定訳」なのだろうか)によって、世界に広く知られるようになった。
が、キーンによれば、どの翻訳も難行苦行の連続なのだという。
かろうじて楽しいと感じつつ翻訳したのはわずかに2作、兼好法師の『徒然草』(Essays in Idleness)と太宰治の『斜陽』(The Setting Sun)で、この場合に限って「ほとんど自分の本を書いているような感じで翻訳した」。
太平洋戦争中、キーンは海軍焼香として日本人捕虜の尋問に当たった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神教育を施されていた捕虜たちに、キーンは日露戦争のとき、日本軍は捕虜になることを認めていた、という話をした。
ハワイ大学図書館に言って、ロシア軍の捕虜となった日本兵士の話について記した本を見つけてきたのだ。
そこでは、日本軍捕虜たちが「ウオッカの配給をお願いしたい」「スケート遊びを認めて欲しい」と陳情したなどというエピソードが書かれていた。
これらの捕虜たちが戦後の日本の再建にとって重要な働きをするだろう、それを何とか手伝えないものかと念じての、いわば義侠心からだった。
もっともこうした努力は「連中をなぐさめるより、かえって捕虜収容所の宙ぶらりん生活に適応するのを難しくしたかもしれないが」と、書き添えている。
キーンはまことに日本最後の文人と呼ぶにふさわしい。
学者にならなかったら、日本文学を生涯の伴侶としなかったら、おそらく京都の旅行ガイドになるくらいしかなかっただろう、と例によってへりくだってみせる。
キーンの好きな言葉は芭蕉の
「終(つい)に無能無才にして、この一筋につながる」
である。
この一筋の透明にして、まろやかな精神の糾(あざな)い。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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:毛沢東と鄧小平
● 1995/05
『
カネと情報の浸透力にかけては、中国人にかなう民族は(おそらくアングロサクソンを唯一の例外として)いないだろう。
これに味(中華料理)の浸透力を加えれば、中国人は「世界一」だろう。
毛沢東は不眠症に悩まされていた。
水泳を好んだが、これはもとはといえば眠りたいがために、自らを疲労困憊させるための苦肉の策だった。
重大な政治闘争、つまり権力闘争を迎えると、眠れなくなる。
眠れないと中国の古典をひもといた。
そこに記されている権力操縦、術策を貪った。
毛沢東は神経衰弱にもかかっていた。
これは「共産党病」といってよい。
それは、抜け道のない社会が引き起こす病気だ。
共産党人間のパラノイアは、おそらく「何事も説明できる」との共産主義イデオロギーとも関係しているかもしれない。
森羅万象「ただ起こった」、ということはなく「だれかが、どこかで、仕掛けた」結果だと、この教義は説く。
ひとことで言えば、「陰謀理論」なのである。
それぞれに、「過去を消す」衝動をもっていたことも共通する。
ヒトラーは自分の祖父にユダヤ人の血が混じっていたのではないかと恐れていた。
スターリンはロシア人ではなく、グルジア人だった。
毛沢東は豊農に近い階級の出だった。
ユダヤ人抹殺、少数民族に対する圧政、富農階級の撲滅は、こうした衝動に突き動かされたのではないか。
3人とも家族の温もり、団欒にはまったく無縁だった。
毛沢東は死ぬまでハーレムの女性とに淫靡な快楽と悦楽を求めた。
しかし、いずれも最大の病気は、政治に対する中毒症状ではなかったか。
宗教ではなく、政治がアヘンとなった。
20世紀はそれによって全身中毒となった3人のモンスターによって、そしておそらくは6千万人を超える犠牲者の巨大な規模によって記憶されるだろう。
この1993年12月26日を、鄧小平は特別の感慨を持って迎えることだろう。
毛沢東の生誕100周年に、その日は当たる。
北京では、1つ「1万ドル」もする金の記念硬貨が発売された。
中に南アフリカ産のダイヤモンドが埋め込まれている。
毛沢東の生前の肉声演説を録音したCDも売り出され、またたく間に売り切れた。
これは、新中国建国のとき、天安門で行った建国宣言をはじめ、7演説を収録した。
将来の値上がり益を期待しての投機的買占めもあったらしい。
たしかに、毛グッツ大流行には違いないのだが、どれもこれも、商売のにおいがプンプンする。
ダレもカレもが、毛沢東にあやかって、ひと儲けしてやろうと、目の色を変えている。
鄧小平は、「毛沢東は、7割が誤り、3割が正しかった」と総括している。
7割までが間違いのものに、こうまで人気が集まるのは、共産党としては困る。
しかし、どうだろう。
当の鄧小平は、案外、一人「ほくそ笑い」しているのではなだろうか。
これによって、「毛沢東神話」が蘇ることは2度となくなったと、読んでいるに違いない。
神聖であるべき毛沢東、神妙であるべき毛沢東崇拝が、商品化され、市場化されている。
それこそ、鄧小平路線の毛沢東路線に対する最終的勝利でなくして、なんであろう。
外に対する好奇心と、外から学ぼうとする姿勢が鄧小平にはある。
そこが毛沢東とは異なる。
死の直前まで、ハーレムの女性とのセックスに明け暮れた孤独な毛沢東とは大違いだ。
しかし、一番の違いは、鄧小平は、降格させたり、解任したり、批判した相手を、辱めることはしなかった、ということである。
胡ヨウ邦失脚のさいには、総書記の職は解いたが、政治局常務委員には残した。
後任の趙紫陽解任の場合も、「反党分子」として処分しようとの圧力に抵抗し、党籍は守った。
毛沢東は、政敵には容赦しなかった。
劉少奇を」いたぶり、辱め、殺すのを放置した。
鄧小平は「ソク隠の情け」の大切さを、文革の教訓として心に深く刻んだのだろう。
ただ、文革からは、もう一つの教訓も導き出したようである。
1989年6月4日の天安門事件に先立つその年の2月、北京を訪れたブッシュ大統領に、次のように言っている。
「もし、10億の民のこの国で、多党間の選挙が行われたら、われわれは文革のときのような大規模な内戦に、間違いなく突入するだろう」
共産党の一党独裁を死守することにかけては、鄧小平はいささかも譲らなかったし、妥協しなかった。
にもかかわらず、鄧小平は毛沢東より、はるかに広く深く、共産党の権力基盤を掘り崩してしまった、といえるだろう。
文革は、党の威信を失墜させたが、基盤まで侵食したわけではない。
が、経済改革と市場導入は、それを押し流そうとしている。
市場は、いずれ党の独裁を下から突き崩すだろう。
とどのつまり、下部構造(経済)が、上部構造(政治)を規定するのではなかったか。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年10月26日月曜日
:イスラエルの「帰還法」
● 1995/05
『
イスラエルから海外に移民する人々の数が増えている。
イスラエルは旧ソ連邦からのユダヤ人を中心とする一大移民受け入れ国であるが、同時に、主としてアメリカへ向かう一大移民供給国でもある。
世界広しといえども、おそらくイスラエルほどワシントンの日々の動向に神経をとがらせている国はないだろう。
かって国務省の高官に、「ワシントン・ウオッチ上位4カ国」説というのを聞いたことがある。
それこそ命がけで、ワシントン政治の体温と脈をとっている4カ国。
イスラエル、カナダ、イギリス、そして日本だ、と彼は言った。
ベーカー国務長官はオフレコ懇談の席で、
「アメリカ国内のユダヤ系がナニを言っても放っておけ。連中はどっちみち、われわれ(共和党)には投票しないのだから」
と、発言。
「戦後、最も親イスラエル路線をとったレーガン政権8年の後でも、ユダヤ系の共和党への投票は30%にすぎなかった」
と、言ったとも伝えられる。
PLO(パレスチナ解放機構)は「世界一金持ちの解放運動」と形容されてきた。
1980年代後半の年間予算は2億3千万ドル(約200億円)に上ったとの試算がある(別の推計は約20億ドル(約1500億円)とはじいている)。
その多くが、サウジアラビア、クウエート、カタール、モロッコ、チユニジアなどのアラブ産油国からだった。
これは、PLO上層部の腐敗をもたらしたといわれる。
イスラエルには「帰還法(The Law of Return)」の習性、ないし廃止論議が起こっている。
ひらたく言えば、ユダヤ人である限り、世界の何処に住もうともイスラエルに帰還して、市民権を得る資格を認める法律である。
「過去、3千年」の間に離散したユダヤ人を呼び戻す、イスラエル建国の精神にのっとって制定された。
ソ連が崩壊してから急増したロシアからの移民が、世論を変えることになった。
50万人近い移民のうち、1/3はユダヤ人でなかったといわれる。
また、移民の7人に1人は高齢者だった。
「本当にユダヤ人かどうか、はっきりしないのに、この法律のおかげで、イスラエルに住みつく人が増えている」
[帰還法をよいことに、移民してくる連中を養うために、国民の負担が重くなっている。無制限の移民自由原則は考え直すべきだ」
といった意見も強まっている。
1980年代後半まではPLOをはじめ、アラブ諸国が帰還法反対の急先鋒だった。
イスラエルの人口増加、軍隊強化、対アラブ攻勢の土台作りのための法律とみなした。
要するに、帰還法は世界中のユダヤ人に安全地帯を提供するというよりは、国家安全保障上、つまりアラブと戦うために必要なもの、とみなされてきた。
帰還法の問題はそれが単なる一片の法律でないところにある。
国父、デイビット・ベングリオンはこの法案を提案した際、イスラエル議会に次のように説明している。
「国家がデイアスポラ(離散したユダヤ人)に帰還の権利を与えるのではない。
この権利はイスラエルの建国以前から存在し、イスラエルをつくるよすがとなった。
この権利の源は人々と故国の間の歴史的きずなにある」
「帰還法は移民に関する法律などではない。
それは、イスラエルの歴史を永遠のものとする法律である」
法律(1970年改正法)によれば、「ユダヤ人とは、祖父祖母のいずれかがユダヤ人であればよく、またユダヤ人の配偶者も移民の権利が与えられる」
民族の範囲を決めるのに「3代前」まで遡るのはナチのゲルマン民族の規定の仕方を彷彿させる。
「ヒトラーのガス釜で処理されるのに十分なユダヤ人であれば、イスラエルに帰還するに十分なユダヤ人であるということ」と、ニューヨーク・タイムズ紙のイスラエル担当特派員、クライド・ヘイバーマンは皮肉たっぷりに書いている。
ベイグリオンの思想は、イスラエルを世界有数の多民族国家にすることになった。
ここの1/5はアラブ民族である。
アメリカが多文化主義の波に洗われ、苦悩するのと似て、イスラエルも多民族主義の挑戦に悩むことになるだろう。
どちらも土と血を超えた普遍的理念の共同体を目指すところに、歴史的価値の尊さがある。
理想が高いがゆえに、苛立ちもまた強い。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年10月24日土曜日
世界ブリーフィング 同時代の解き方:船橋洋一
● 1995/05
『
映画「タクシードライバー」で最も鮮明に覚えているシーンは、ニューヨークのタクシードライバーのトラビス(ロバート・デ・ニーロ)が買い入れたハンドガンをうっとりと眺めるところだ。
黒光りする銃身をさすり、頬につけ、愛撫する。
鏡に向かって早撃ちのまねをしては、ガンマンを夢想していく。
カメラがメタルの妖しげなまでの光沢をとらえて離さない。
濡れた光沢、英語でいう「sleek」。
大都会にひとり疎外され、漂流する男が、ひとかどになろうとする。
巨大な管理社会、そして階級社会の壁を突き破る最後の手段は、ハンドガンだった。
トラビスは、大統領選候補者を暗殺しようとするが果たせない。
レーガン大統領を暗殺しようとしたヒンクリーは、この映画を見て、反抗を思い立った。
アメリカの映画は、「拳銃片手に生まれた」ようなものである。
西部劇の古典、「大列車強盗」が世にでたのが1903年。
画面いっぱいに銃口が映り、引き金にかけた指がゆっくり動く。
次の瞬間、もうもうとした煙がひろがった。
観客は、腕で顔をおおい、身をのけぞらした。
アメリカの映画のリールにやきつく「銃口文化:gun culture」は、この映画から始まったといわれている。
「ウインチェスター銃73」「ガンスモーク」「OK牧場の決斗」「ライフルマン」などの拳銃映画が生まれた。
1960年代は、「ボニーとクラウド(俺たちに明日はない)」。
1970年代、「タクシードライバー」もこの時代の作品だが、なんといっても「ダーテーハリー」だろう。
クリント・イーストウッドが使ったのは、「モデル129 スミス&ウェッソン」と、「.44マグナム」だった。
封切り直後から、この2種の銃は爆発的売れ行きとなった。
ケネデイ暗殺の後は、オズワルドが使用したライフル銃が全米のガン・マニヤの人気を博した。
レーガン暗殺未遂の際も、ヒンクリーの用いたハンドガン(RG .22)が、その後飛ぶように売れた。
1980年代に入ると、画面に出てくる銃はより大型化する。
「AK-47」であり、バズーカ砲であり、ショットガン(レミントン870)である。
その一つが「ターミネーター」で、レミントン870を肩に下げたリンダ・ハミルトンは、女性の武装化と銃文化への女性取り込みのシンボルだった。
1990年代になると、冷戦イデオロギーの揺らぎ、軍事経済・軍事社会の解除、銃規制を求める圧力の増大が、映画にも影を落とすようになった。
銃を「equalizer:平等屋」と呼び、かってはコルトを、80年代のレーガン時代はミサイルをいずれも「peacemaker:平和屋」と名づける国である。
自由と平等のどちらも銃によって表現されうるとの神話を、いまなを信じたいのだろう。
「神は人間を創りたもうたが、サミュエル・コルトが人々を平等にした」
西部開拓史の頃、人々はそう言ったものである。
(1994/06/17)
注].サミュエル・コルト: 「コルト45」拳銃の生みの親
』
この本、上記のように1992/01/31から1995/04/07にかけて発表されたもので、ほぼ15年前のものになる。
15年といえば、はるか昔の話。
変わりまくったのが昨今。
要は、変わらなかった部分に今読むこの本の面白さがある。
民主主義国家アメリカ、これまるで変わっていない。
いまだに「スーパーチュースデイ」なるものをやっている。
スーパーチュースデイーとは大統領選挙の投票日のこと。
簡単にいうと「大統領選挙日は火曜日です」ということ。
どこの民主主義国家に「火曜日」を選挙日にする国があるか。
一般庶民が火曜日に仕事を休んで、投票するか?
仕事を休めるか?
誰が考えても分かること。
それを改正しない、アメリカ人。
あのロシアでさえ、日曜日だ。
それで人権主義なるものを掲げている。
民主主義、ウソも休み休み言え、ということ。
ちょっと、冷静になればすぐに分かるアメリカの身勝手主義。
つまるところ、金持民主主義、成り上がり民主主義、金融民主主義。
ビンボー人は、選挙にはいけない、ように作られているということ。
ビンボー人は、黙っていろ、ということ。
ビンボー人は、金持ちの駒、でしかないということ。
ビンボー人は、文句を言わずにもくもくと働いていればそれで十分だということ。
ビンボー人は、銃をかついで戦地へ行け、ということ。
戦地にはいくらでもビンボー人を送り込める、ということ。
ビンボー人のストックを十分もてるように作られた民主主義だということ。
それが、アメリカ式民主主義。
日本の、そして世界の民主主義とはまるで違っているということ。
非常に特殊な民主主義の信奉者だということ。
「超ゲテモノ民主主義」だということ。
それを、どもマスコミも口をぬぐって言わない。
つまりマスコミもエリート主義だということ。
マスコミなんてそんなものよ。
ケセラセラ、の世界だということ。
生きていくためには、正直に書き過ぎてはいけない、ということ。
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2009年10月23日金曜日
:死の匂い・奇蹟物語
● 1973/06
『
私は「ユダの荒野」に眼をやった。
埃をかぶった茨(ラタブ)だけが点々とはえている荒野は、ところどころに白っぽく皺をつくって(それは塩をふいているのだそうである)、遠い山まで拡がっている。
遠い山はいずれも駱駝のようにうずくまっていた。
髑髏(されこうべ)に似た山もあれば、風雨に腐った木の根そっくりの山もあった。
ひからびた動物の死骸を思わせる山もあった。
もし季節が夏で強烈な陽が荒野と山を焼きつけていたならば、別の印象を受けたかもしれぬが、この4月の午後の光のなかで、私は湖も荒野も山もただ老い朽ち果てているような気がした。
湖からも荒野からも風化された山からも「死の匂い」を私は嗅いだ。
「夏にここに来てみろ」
「夏に来たの」
「来たさ。すさまじい暑さで、車は溶鉱炉のようだった」
「そしてそのほかは、死の匂いがするだけだな」
「そうだ」
「ぼくのように、初めてここに来た者にもわかるよ。
ここでは生きるためには、何か烈しく怒っていなくちゃならないな。
何かを強く畏れなくちゃならない」
「ここでは、神は烈しく怒り、裁き、罰するんだ」
腰に革帯を締め、イナゴと野蜜しか食べなかった預言者たち。
『荒野に呼ばわる』と聖書に書かれたその声を聞く者たちは、世界の終末を信じるためには、この荒涼たる風景に眼をやればよかったろう。
神の怒りを感ずるためには、空を仰いで白く燃える太陽を見れば足りたろう。
「俺たち日本人には従いていけぬ世界だな」
「なぜ」
「ここには」と私は答えた。
「さっきから感じているんだが、人間への愛とか、優しさがまったくない」
「こんな場所で、神の怒りと畏れだけで生きた教団の中で、イエスは何を求めたんだろうね」
「あんたの今、言った「人間への優しさ」だろう----
つまり、彼は荒野の信仰と律法(トーラ)が創りだした神のイメージに耐えられなかったのだろう。
彼は神とは何かを求めてここへ来たんだが、怒ったり罰したする神しか教えられなかったんだろう」
「彼は長血の女や盲の男たちを、奇蹟で本当になおしたのだろうか」
「奇蹟?-----奇蹟などイエスの生涯になかったさ」
「それなら-----聖書のあの奇蹟物語は、なぜあるんだ」
「俺は奇蹟物語を読むたびにね、ガリラヤの人々がイエスに求めものは、「奇蹟だけだった」のだと思うな」
「どいう意味だ」
「ガリラヤの住民たちは、イエスから「愛」などという眼に見えぬものより、現実的な奇蹟の方を欲しがったんだよ。
びっこを治してくれ、熱病で死にかかった子どもを生きかえらせてくれ、盲の眼を開いてくれ------それ以外をイエスに求めなかった、ということだよ」
私は眼をつぶって、言うとおりだろうと思った。
私だって、もしその時、イエスにめぐりあっていたならば、彼らと同じ気持ちになっただろう。
「あんただって、あの奇蹟物語を本気で信じていないくせに。
華やかな奇蹟物語は、あとでイエスをを神格化するために、各地の伝承を「聖書作家」が織り込んだものだ。
だがその奇蹟物語の隙間隙間に、人々や弟子からも見棄てられたイエスの話が突然出てくる。
それが事実だよ。
本当のイエスの姿さ。
イエスがもし力ある業(わざ)を見せたとするなら、なぜ見棄てられ、ガリラヤを追われたのか」
「それはどこに書いてある」
「ヨハネ、6章67節------この後、弟子たちは、多く去りて、もはやイエスに従わざりき。
マタイ、11章21節。
開いてみろよ、イエスが自分を見棄てたガリラヤの町々を歎く声が書かれている」
』
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死海のほとり:駄目な男、責任能力のない男:遠藤周作
● 1973/06
『
「君もイエスを見棄てたのか」
「見棄てなどしないさ。見失ったんだよ」
「君は長い間、聖書を勉強してきたのに」
「だからイエスも見失うさ」
「長い間、イエスの生涯も姿も聖書に書かれてあるそのままだと信じてきた。
だが、勉強が進むにつれ、聖書に描かれたイエスの生涯も言葉も、事実というより原始基督教教団が神格化し、創られたものだとわかってくる。
そこから、後世の信仰が創りだした聖書のイエス像を丹念にのけて、本当のイエスの生涯だけを見つけようと考えて、ここにやってきた」
「その勉強がどうなった」
「この町で、本当のイエスの足跡が瓦礫の中に埋もれて、何処にも見当たらなぬように、聖書のなかでも原始基督教教団の信仰が創りだした物語や装飾が、本当のイエスの生涯をすっかり覆いかくしている。
俺のやった勉強は、聖書考古学者の発掘みたいなものでね」
「どうして」
「考古学者が瓦礫を掘り下げ、この破片がイエス時代のものか、もっと新しいものか、ひとつひとつしらべるように-----こっちも長い間、聖書の中から後世に作られたものと、本当のイエスが語ったり行ったりしたものを分けてみたんだ。
マルコやルカやマタイが「どういう材料」を、「どう使って」、「どういう風に」書いたか。
その材料は「どこまで史実」に即しているのか。
創作か、伝承か-----。
そうした伝承や創作の部分を、忍耐強く取り除き、濾過した純粋なものを探す仕事だ。
それで得た結果は-----ほんの一握りのイエスの足跡だけでね」
「一握りのイエスの足跡でも、確実なことなんだろ」
「ああ、一応は確実だと思うよ
「どこから始めるの。ベトレヘムから?」
「ベトレヘム?
ベトレヘムでイエスが生まれたなんて-----原始基督教教団やマタイ福音書やルカ福音書が、イエスを神格化するために作った話だよ。
イエスがナザレで育ったというほか、我々には確実なことは何もわかっていない-----」
「じゃ、何処へ連れていってくれる」
「そうだな。
ユダの荒野にでも行くか。
エルサレムから車で1時間ほどの荒涼とした砂漠で、イエスがヨハネ教団に身を投じて修行した場所であることは確かだ。
そこから出発すれば、イエスの本当の姿は少しずつわかるかもしれんし-----」
「イエスの本当の姿って、どんなものだ」
「イエスの従兄弟は長い間、イエスを馬鹿にしている。
かれが家庭生活で「駄目な男」だったからだ。
親類たちもやがて、イエスを「責任能力のない者」と扱うようになっている」
「そんなこと何処に書いてある」
「マルコ伝の3章21節や、ヨハネ伝の7章5節がふと洩らしている。
ある学者は彼が家族から責任能力のない者にされたとさえ言っている。
聖書の中のこんなふと書かれた記述が、事実のイエスを知る上に大切な手がかりになる」
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年10月17日土曜日
:延命というより、少しでも楽に、
● 1990/06[1984/07]
『
院長の眼に視線を据えると、
「常識的にみて、あとどのくらい持つとお考えですか。半月でしょうか」
と、思い切って問うてみた。
「いえ、そんなに早くは‥‥」
「それでは1カ月ぐらい」
「どうも申し上げかねますが、もしかすると‥‥」
院長は、足元に視線をおとした。
弟が味わっている苦痛はまだ序の口で、さらに想像を絶した激烈なものになり、それは死の瞬間までつづくのかも知れない。
私は、しばらく黙っていたが、院長をフタ食べ見つめると、
「医師としてのお立場がおありでしょうが、兄としては、延命というより、少しでも楽に、ということを願っております」
と、言った。
院長は、無言で何度もうなずき、少し間を置いて、
「お気持ちはよくわかります」
と、答えた。
一般的には非情とも言える以来を院長にしたが、私に悔いはなく、むしろ当然のことを口にしたという気持ちが強かった。
幼い頃から何度か肉親の死に接してきたが、通夜、葬儀の情景がその部分だけ照明をあてられたように鮮やかな記憶として残っている。
四歳の夏に姉が病死した通夜には、多くの人が家に集まったことに興奮してはしゃいでいた。
小学校に入ってまもなく祖母が脳溢血で死亡した折には、口、鼻に脱脂綿を詰められた死顔に意識を失いかけるほどの恐怖におそわれた。
中学校2年の夏には四番目の兄が死んだが、戦場での死であったので、それを告げる公報と送還されてきた遺骨で無理に死を納得させられた感じであった。
終戦の前年の母の死は、私に初めて死というもののもつ意味について考える機会を与えてくれたように思う。
その頃、私は肺結核の再発で奥那須の温泉宿に療養に行っていたが、配達夫から渡された「ハハシス」という電報用紙の片仮名文字に、為体の知れぬ可笑しさが抑えきれぬほどの強さでこみ上げてくるのに狼狽した。
その思いがけぬ感情は、いつの間にか胸に根を張っていた、自分の母だけはなぜか死ぬことはない、という稚い信念が裏切られたことによって生じたものであった。
それは、私が死を観念としてしかとらえていなかったことを示している。
やがて私は、結核の3度目の発病で病臥する身になったが、手術台に縛り付けられてメスを加えられ、肋骨を切断されている間、時間というものの重い存在を実感として意識した。
局部麻酔のみによる手術のため激痛につぐ激痛が押し寄せる中で、私は泣きわめきながらも唯一の救いを時間の流れに求めた。
時間は確実に経過し、それによっていつかは苦痛から解放される時がやってくると考え、事実、5時間後には期待通り手術台から離れることができた。
時間の存在を身にしみて知った私にとって、死は観念の世界のものではなくなった。
人間の生命は時間の流れとともに推移し、ある瞬間、弦が音を立てて切れるように、死の中に繰り込まれてゆく。
死は決してまぬがれられるものであり、生きていくということは、一刻一刻死への接近を意味している。
誕生したばかりの新生児すら、すでに死への歩みをはじめている。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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:一刻一刻を
● 1990/06[1984/07]
『
32年前に手術を受けた直後、十日近くも続いた堪えがたい苦痛がよみがえり、息苦しくなった。
私の場合は肋骨を切除することによって肺の上部を潰したにとどまったが、弟は左肺をすべて切除され、苦しみの度合いはさらに激しいはずである。
手術を受けた年の日記を取り出し、ページを繰ってみた。
手術は9月17日で、その夜、
「呼吸困難。三兄、一晩中起きていてくれる。」
と、ある。
窒息状態に近い呼吸困難と胸部の激痛で呻き声もあげられRず、二日後には、
「床ずれと呼吸困難で気も狂いそう。痛くて、動かうにも動けぬ。寝返りが出来たら、と思う。」
と記され、三日後の日記には、
「床ずれで骨が折れそう、輸血200cc、悪寒40度4分の発熱。ベッドが音をたてて揺れる、看護婦が来て、注射。」
と書かれている。
翌日になって、
「痛い、痛い。やっと左手が胸のところへ持っていけるようになった。」
とあり、少し体を動かすことができるようになったことが知れる。が、
「夜はまだ一睡も出来ぬ。」
と書かれ、五日後に、
「痛い、痛い、泣きたくなる。明け方トロトロとする。朝が待遠しい。」
と記されていて、ようやく眠ることができるようになったことがわかる。
4時間の睡眠がとれたのは八日後で、その日、看護婦に強引に上半身を起こされたが、呼吸が出来ず、再びベッドに横たわった。
同じ日、手術後初めて食物を口にしている。
これらの記述は、手術後十日目に記憶をたどって鉛筆で書きとめたものであった。
私が受けた手術は、健康を恢復できる期待のこめられたもので、事実それはかなえられたのだが、弟の場合は、リンパ腺に癌の転移がみられ、やがて死亡する確率が高い。
死がほとんど定まっているのに、そのような苦痛を味あわねばならぬことが不当に思えた。
終戦後、手術をうける前、あと五年、日数にして1,800余日生きることができれば、どのような苦痛もいとわない、と思った。
その折、死というものがいつかは必ず訪れ、ある瞬間に糸が切れるように自分の生命が断たれるのだ、ということも自覚した。
その時から歳月を日数で数えることが習性化し、あと十年生きられるとしても3,650日だと考えると、残された時間がわずかなものに思え、一刻一刻を自分のためにのみに費したかった。
』
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冷い夏、熱い夏:日本人の死生観:吉村昭
● 1990/06[1984/07]
『
欧米人の死生観と日本人のそれに、「基本的な相違」があることを意識したのは、心臓移植手術を素材にした小説の資料を得るために、南アフリカ、ヨーロッパ、アメリカを旅行したときであった。
外科医、心臓移植をうけた患者、提供者の遺族たちに会い、資料の蒐集につとめる間、私は、欧米人が生と死に対する特異な考え方を持っていることを知り、やがて特異なのは日本という極東という島国に住む自分たちであることに気づいた。
南アフリカの外科医バーナードが最初に心臓移植を行ったワシカンスキーという技師は、18日後に死亡したが、私は、心臓を提供した若い女性の父であるダバル氏をその自宅に訪れた。
私が、ワシカンスキーが死亡した折の感想を求めると、氏は、
「娘は交通事故で死亡したが、肉体の一部がワシカンスキー氏の体内で生きていると思って、自らを慰めてきた。しかし、彼の死によって娘も完全に死んでしまい、悲しくてならない」
と、波がぐんで言った。
私は、その言葉に、同じ地球上に棲みながら、私たちと異なった考え方をしている多くの人たちがいるのを感じた。
私が同じ立場であったとしたら、ムスメの心臓のみが独立して他者の体内で生きていることに、堪えきれぬ「無気味」さを感じるだろう。
移植患者が死んだことを知れば、娘の心臓も動きを止め、完全に死の世界に同化した安堵に似たものを抱くはずだ。
氏は、人体を多くの部品によって組み立てられた機会のように考え、心臓-部品が動いていることは、娘の一部が生きていると考えているらしい。
それとは対照的に、私たちの死に対する考え方は、はるかに情緒的なもので、人体は決して物体ではなく、死は「やすらぎ」を意味する。
死は、或る瞬間に「犯し難い確かさ」で定まり、その直後から死者は「追憶の世界」に繰り込まれる。
北海道の一漁村で耳にした挿話も思い出された。
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やがて埋葬されたアメリカ人飛行士の置いた母が来日し、通訳とともに村を訪れた。
彼女は、遺品の十字架のペンダントを眼にして、埋葬されているのが息子の遺体であることを確認した。
村では遺体を掘り起こして焼いて渡したが、彼女が抱きしめて離さなかったのはペンダントで、遺骨への関心は薄く、車のトランクに無造作に入れて去ったという。
彼女にとって、遺骨は単なる物質にすぎず、ペンダントに息子の思い出の多くを見たのだろう。
欧米人の死生観との相違は、日本人の「遺骨収集」という行為に端的に表れている。
戦後35年もたつのに、南方の島々に遺骨収集団が赴くが、そのような行為は日本人のみに限られている。
ペンダントを抱きしめたアメリカ婦人と同じように、欧米人は朽ちた遺骨など、なんの意味もないのだろう。
これらの事柄から考えても、日本人と欧米人とは基本的に死と生に対する観念がことなっている、」と考えていいのではないだろうか。
』
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2009年10月14日水曜日
脱出:吉村昭
● 1989/07[1982/07]
『
解説:川西政明 昭和63年10月
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記憶に残っている話から書いておきたい。
それは吉村昭の人と文学を考えるとき浮かんでくる消しがたい一つのイメージのことである。
吉村昭に「標本」(「文芸」昭和60年11月号)という短編がある。
38年前、「私」は肺結核治療の手術で胸郭成形手術で5本の肋骨除去の手術を受けた。
その手術を受けた医師から肺結核治療の手術で除去した骨が大学病院の医局の標本室に保存されていると知らされる。
「私」はその保存された骨を見に出かける。
この作品を読みはじめたとき、あるショックを感じた。
骨を見に行く。
吉村さんは骨を見に行くのか、と感じたのである。
手術のさい骨膜は残されたので、その後、「私」の骨は再生された。
このため骨の機能には障害はない。
今や除去された骨は、「私」には何の意味もないものになっている。
その骨を見に行く。
その言葉に、不意をつかれるものがあった。
当時の手術は残酷で、4,5時間を要する手術が局所麻酔だけで行われた。
途中、麻酔が切れてしまうため、患者は耐え難い激痛に襲われる。
「私」もまたその苦痛に耐えたのだった。
《私は、死をまぬがれたい一心で手術を受けたが、想像を絶したすさじい激痛に、二度とこのような体験は味わいたくないと思っていた。》
吉村はこのように書いている。
この骨のことが、なぜか気になった。
38年前、「私」は5本の肋骨を切断する乾いた音をきき、シャーレに捨てられた、水々しい光沢をおびたひねを見た。
手術直後に眼にした骨は生きて見えた。。
今、時をへだててみる骨は、「私」とという存在とは無関係なものでしかなかった。
この骨は、過去も未来も消失して、現在という一瞬にすべて凝縮して、今・ここに「私」は生きているという充実したときを告げているように思われた。
すべて好し、「私」は今・ここに生きている。
人はこのようにはなかなか自分を確認できないものである。
ところが、はからずも吉村昭はこの骨を見ることによって、そのように今・ここにある「私」を発見したのだった。
骨はそのように「私」を確認するひとつの象徴であった。
だが、その一方でその骨は、激痛のなかで「私」から切断されたモノでもあった。
吉村昭はそうした人間の苦痛を知っている。
そしてそのことは、人間の苦痛の中を這い回って「今・ここ」という場所に到達しうるのである、ことを教えてくれる。
苦痛を経験して生き延びてはじめて、人は心が自由になって、よくモノが見えるようになるのである。
「昭和」という時代を生きたわれわれ日本人にとっての最大の苦痛は、戦争であったというよう。
敗戦という苦痛を通過することによって、日本人は「昭和」という時代の苦痛を償ったのだった。
『秋の街』の「あとがき」で吉村昭は、
「小説の本来の姿は、現実の可能性の上に創造をおこなうものだ」
という信念から「虚構小説」を書き続けてきたのだと言っている。
「私」のことを書くのも、他人のことを書くのも、同じように現実の可能性の上に創造を行う行為であろう。
自分のことから出発するのは、あらゆる作家の通有事である。
だが、それだけでは、どうしても世界は狭くなる。
それを自覚する本来の作家は、だから自分から出発しながら「自己の他在化」、あるいは「他者の自在化」へと踏み出してゆかざるをえない。
作家は現実の閾(いき)の向こう側へまで、自由自在に踏み込んでゆける人間である。
吉村昭は他者の世界に大胆に踏み込む。
同時に彼は他者の生きてきた世界を大切にする。
そのために徹底した調査・取材が行われるようだ。
ここに集められた5編も事実の綿密な調査の上に、人間の可能性を追求したものである。
この」うち4編に共通するのは、戦争に遭遇し、苦痛をなめるのが、いずれも少年だということである。
少年たちは、ある日、不意に、「戦場」に投げ出されてしまう。
吉村昭は、その少年の上に流れた時間は「空虚な時間の流れでしかなかった」と書く。
苦痛を意識するとき、人はその苦痛に耐えられない。
苦痛を意識する暇なく、人はその’苦痛の時間を通過させ、「生き延びるよりほかに生きる方法はない」。
そして二度と経験したくないようなその時間を通過してしまったとき、それは空虚な時間の流れに変化するのだ。
苦痛は負の力である。
だが、その力が生の原動力でもあるのだ。
少年は、生きる=生き延びるという生命の源泉の時間をそのとき同時に生きたからだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年10月12日月曜日
むかしのはなし:あとがき:三浦しをん
● 2008/02[2005/02]
『
なにかを語り伝えたいと願うときは、きっとなんらかの変化が起きたときだろう。
喜びか、悲しみか、驚きか、定かではないけれどとにかく、永遠に続くかと思われた日常のなかに非日常が忍び入ってきたとき、その出来事や体験について、だれかに語りたくなるのだ。
だれでもいい。
だれかに。
ひとは変化する世界を言葉によって把握するものであること。
どんな状況においても、言葉を媒介にだれかとつながっていたいと願うものであること。
語られることによって生きのびてきた物語は、人々にそう伝えているように思う。
話者の匿名性を保つこと。
『むかしのはなし』と銘打って、こういう内容にすること。
すべて、いま「昔話」が生まれるとしたら、と考えた結果である。
「日本昔話」が、この本のなかでどう語り変えられたのか、お楽しみいただけたなら嬉しい。
』
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