2009年7月24日金曜日

:そのとき、家族は


● 1991/09



渡辺諄一
 日本で脳死が受け入れられるためには、いま何がもっとも必要だとお考えですか。
秋山暢夫(東大医科研付属病院前病院長)
 もう受け入れられていると私は思いますよ。
渡辺
 脳死がですか?
秋山
 現に救急の現場などでは日常的に脳死判定が行われて、ご家族の了解の下で(脳死者の)人工呼吸器が止められているわけですから。
渡辺
 でも、そうした医療現場で「まだ心臓が動いている。なんとか助けてほしい」と訴える家族もいると思うのです。
 彼らは果たして脳死を認めているだろうか。
秋山
 肉親の脳死を宣告されて、ご家族が取り乱すのは、必ずしも「脳死を認めていない」からではないんです。
 むしろ「ダメだと」いうことがわかって感情のコントロールができなくなる。
 これは一般の心臓病でも同じですよ。

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渡辺諄一
 ところで、先生の病院で脳死患者の発生数は?
大塚敏文(日本医科大学付属病院長)
 昨年1年間で94例。
 もちろん脳死と判定されて生き返った例は一例もありません。
渡辺
 専門家が診れば、脳死の判定というのは、はっきりつくと。
大塚
 それほど難しいことじゃないんです。
 私にいわせれば、脳死患者は「人工呼吸器をつけた死体」です。
渡辺
 先生のような救急医療の専門家は、患者の家族に対して脳死をどう説明されますか。
大塚
 私は曖昧な言い方はしません。
 「残念ですが、脳死状態になりました。脳死というのは絶対に元に戻ることはございません。早くて2~3日後から1週間ぐらいで心臓が止まります」と。
渡辺
 そういわれても、まだ現実に脈拍はあるし、肌も温かい。
 脳死なんか絶対納得できないという家族も----。
大塚
 いますよ、それは。
 「心臓が動いている時はまだ生きているんです!」
 と、泣き叫ぶあれば、
 「もしかしたら----」
 という希望にすがる家族もいます。
渡辺
 どの家族も「限りなく可能性に近い夢」をみながら、最後は現実を受け入れざるを得なくなる。
大塚
 その家庭に4つの心理段階があります。
 第1段階は「驚愕期」といって、大半尾家族は半狂乱になります。
 その状態のあとに「混乱期」がきて、「もしかしたら」という期待と、「この人がいなくなったらどうしよう」という絶望感との間で、非常に情緒不安定になるんです。
渡辺
 脳死と宣告されても、まだ受け入れない時期ですね。
大塚
 それがすぎますと、少し様子が落ち着いてきて、患者の体に障ったりしながら気持ちを整理する。
 この「検討期」から1日か2日後に第4段階の「受容期」、つまり脳死を死と認める自記が訪れて、「覚悟はできています」と。
渡辺
 じゃ、家族が身内の脳死を受け入れるまでに----。
大塚
 早くても4日、普通は6~7日かかります。







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2009年7月23日木曜日

:「初めに脳死ありき」


● 1991/09



 近代医学の発展の過程の中で、いままでの単純な心臓死ではない「脳死」という状態があることがわかってきた。
 いいかえると「初めにまず、脳死ありき」であった。

 いま分かりやすく、心臓がストップするとどういうことになるか、その過程を追うと、心臓が停まるとまず、全身に血が回らなくなる。
 血が回らないと頭にも血がこなくなって、脳が酸欠状態になる。
 すると脳の中の脳幹という組織も働かなくなるという現象が起こる。
 この脳幹という部分は呼吸を司っていて、この部分が働らかなくなると呼吸が止まる。
 呼吸が止まってしまえば酸素もとりこめないから心臓も動かない。
 ここで一つ重要なことは、心臓停止が死に至る最後のピリオドではなく、その後に「脳の働きが止まり呼吸が停止する」、という過程があるということである。
 いいかえると、心臓より抹消組織のほうがわずかだがより長く生きている。

 ただ実際の場合、この「心臓死」→「脳死」→「呼吸停止」という流れは連続的に起こるから時間は非常に短い。
 そのため運ばれてきた患者がすべて脳死状態になるのではなく、タイミングよく人工呼吸器をつけられ、全身の組織が死ぬ前に脳幹に代わって呼吸を可能にさせてやることができれば、肺から酸素が入ってくるから心臓がまた回りだす。
 したがって、人工呼吸器による脳死の状態は、呼吸器をはずすと同時に終わってしまう。

 この点で脳死者は植物人間とは全く異なる。
 植物人間の場合は脳幹を包むように位置する外側の大脳が破壊されただけの状態で、脳幹そのものは働いているのである。
 したがって呼吸も自分で行えるし、食物も喉まで入れてやるときちんと消化し排泄し、暑ければ汗もかくし、目にゴミが入りかけるとまばたきもする。
 生活するのに必要な最低の機能は残されているが、人間の意志や情緒を司っている大脳が働かないので自発的な反応はできない。
 むろん意志的に手足を動かすこともできない。
 これが植物人間であって脳死者とは根本的に違う。
 脳死はまさしく、近代医学を学んだ医師たちが新たに見出した死である、ということにまちがいはない。 
 いや、医師というより、近代医療器械が生み出した死というべきであろう。

 いうまでもないことだが、脳死が容認されたからといって、脳死者がみな臓器を提供しなければならない義務などありえない。
 すべての人は、①臓器移植を受ける権利と、②それを拒否する権利、とを有している。
 と同時に、③自分の臓器を提供する権利と、④それを拒否する権利、とをもっている。
 この4つの権利は厳として存在し、自分が脳死状態になっても臓器を提供したくないと思えば、あらかじめそう宣言しておけば済むことである。

 いま改めて反対論を振り返ると、人類が何万年ものあいだ持ち続けた「死の概念」を一朝一夕に変えられてはたまらないという素朴な嫌悪感と、欧米先進国が認めているからといって、日本には古来から独自の文化と死生観があるのだから、彼らにやみくもに従うべきではないという意見につきるようである。
 近代医学はその進歩のとともに種々の恩恵を我々人類に与えてきた。
 それと同時に、自然の死生観とはなじまない概念を持ち込んできた。
 たしかにまだ冷たくなっていない、一見生きているように見える人間を死者とするには違和感を持つ人がいるであろう。
 この違和感こそが、近代医学が進歩の陰で持ち込んできたマイナスの貌である。
 これを嫌悪し忌避するのは自由だが、それなら近代医学そのものまでも捨て去る勇気があるのか。
 最新医学の心地よいプラスの面だけむさぼり、負の面には顔をそむけ、忌み嫌うというのでは、理のない駄々っ子の甘えにすぎない。
 近代医学の恩恵に浴したいなら、マイナスの面も冷静に見据え、それをいかにのり越え、プラスに転化するかを考えるのが、人類の英知というものだろう。

 終わりに、病気という極めて個人的な問題について、健康な人が論じることくらい僭越なことはない。
 健康な人は真の意味で、病で苦しんでいる人の気持ちにはなりえない。
 医の問題を論じるときには、この素朴で平明な事実を忘れるべきでない。







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いま脳死をどう考えるか:脳死を考える:渡辺淳一


● 1991/09



 患者さんを抱えた家族は、日夜お腹が見るも無残な形に膨れあがり激しい吐き気や出血に狂しめられ、毎日点滴を受けながら近づく死におびえている子をみつめながら看護をしているのが実情である。
 そういう親子の唯一の望みは肝臓移植を受けることだが、日本では脳死が認められていないため、外国へ行って脳死肝移植を受けるのがベストの方とされているが、この治療を全員がうけられるわけではない。
 2千万円とも3千万円ともいわれる膨大な費用がかかるため、恵まれた家庭に生まれた子どもと、お金はないが周囲の理解に恵まれて募金という形で可能になった子どもにかぎられ、現にこの2つのグループは外国へ行って手術を受けている。

 ここに興味深い数字がある。
 胆道閉鎖症の子ども、つまり肝臓移植を必要とする子どもをもつ親たちへ「胆道閉鎖症の子供を守る会」が行ったアンケート調査の結果で、「わが子に生体肝移植が必要になったとき、決断できるか?」という質問に対して、約4割の親が「わからない」と答えている。
 「イイエ」という答えが3%あってこれは明快だが、「わからない」という答えはかなり微妙で、現に重態の子をもっている親がわからないわけはなく、むしろ「イエスとはいいかねる」、すなわち、自分の肝臓を子供にやりたくないという気持ちが、そのウラに潜んでいるとみていいだろう。

 これは重要な事実で、親が犠牲になって子どもを救う荷が、親のあるべき姿だという考えが日本人には浸透しているに見えるが、本音はそれほどすっきりしたものではない。
 これは考えてみると不思議でも不自然でもない。
 いやむしろそういう思いに悩むのが自然だと考えるべきだろう。
 たとえ医師に、肝臓を提供しても一部だからすぐにもとの大きさに戻るし、切られた面の止血も完全だといわれても、将来影響が出ないという絶対の保障はない。
 健康なお腹を開いて一番重要な臓器といわれている肝臓の一部を切り摘るのは、たとえそれが愛するわが子を救うためであっても、怖くて不安だと思うのは当然である。
 子は'可愛いが、自分の体はもっと可愛い。
 だが、日本人を支配している常識的な倫理からいっては答えにくいところから、「わからない」 と答えてしまった。
 こう考えるのは、あながち穿ちすぎとはいえないだろう。

 日本では親子関係が密着しすぎて、親離れ子離れができない独特の精神風土がある。
 これにたよって「生体肝移植」を続けていくと、子どもに臓器を提供しない親が変な目で見られ、社会からの圧迫を加えられることになりかねない。
 さらに親のない子は永遠に助からないことになるし、お金も援助も期待できない子どもも同様な悲劇にあう。
 さらに問題なのは、もの心ついた重症の子どもが、何故、お父さんやお母さんは僕に「肝臓をくれない」のだろうという目で親をみるようになりかねない。
 そして怖いことは、こういう手術を続けて、しかもそれを美談風に仕立てていくと、患者のあいだにはっきりした治療格差が生まれ、それでさらに苦しむ人が増えていくことである。




 先日(10日ほど前に)、法律が改正され15歳未満からの臓器移植が認められ、まずこの本にあるようは障碍の法的部分はスルーになった。


 毎日新聞:2009年7月13日 13時13分 更新:7月13日 14時42分

 臓器移植法改正案は13日午後、参院本会議で採決され、3法案のうち、脳死を一般的な人の死とする「A案」(衆院通過)が賛成138、反対82の 賛成多数で可決、成立した。15歳未満の子どもの臓器提供を禁じた現行法の年齢制限を撤廃し、国内での子どもの移植に道を開くとともに、脳死を初めて法律 で「人の死」と位置づけた。ただ、死の定義変更には強い慎重論が残る。このため、A案提出者は審議の中で「『脳死は人の死』は、移植医療時に限定される」 と答弁し、配慮を示した。

 現行法では15歳以上でないと臓器提供ができず、小児が自分のサイズにあう臓器の移植を受けるには渡航するしかない。だが、世界保健機関 (WHO)は海外での移植の自粛を求める方向で、将来渡航移植の道が狭められるのは確実だ。97年の法施行以降、国内の脳死移植は81件にとどまってお り、A案は年齢制限の撤廃とともに脳死を人の死とすることで、臓器提供の機会拡大を目指す。

 臓器移植法の改正をめぐっては、6月18日、衆院でA案が投票総数の6割の賛成で可決され、参院に送付された。しかしA案に対し、参院側は「移植 の拡大は必要だが、死の定義変更には社会的合意がない」と考える議員も多い。このため、与野党の有志はA案を踏襲しつつ、死の定義は現行通りとする修正A 案を提出した。

 一方、A案支持の中核議員は「脳死の位置づけを変えたらA案の意味がない」と修正を拒否。修正A案を「中途半端」と判断した議員が多数をしめた。 ただ、「一般医療で脳死後の治療中止が広がりかねない」といった慎重論には配慮せざるを得ず、提出者は新しい死の定義について「臓器移植法の範囲を超えて 適用されない」と答弁した。

 A案への懸念は、本人の意思が不明でも家族の同意だけで臓器摘出ができる点にもある。臓器摘出後に本人が拒否していたと分かることも否定できない。成人より難しいとされる、子どもの脳死判定も課題となる。

 採決は修正A案、A案に続き、現行法の枠組みを残しながら子どもの臓器移植のあり方を1年かけて検討する「子ども脳死臨調設置法案」の順で行う予 定だったが、修正A案が賛成72、反対135で否決後、A案が可決されたため、臨調設置法案は採決されなかった。臨調法案に賛成の共産党以外の各党は党議 拘束をかけず、各議員が自らの死生観に基づいて投票した。【鈴木直】

 ◇成立した法律骨子◇

(1)死亡者の意思が不明で遺族が書面で承諾していれば、医師は死体(脳死した者の身体を含む)から臓器を摘出できる

(2)本人の意思が不明でも、家族が書面で承諾していれば医師は脳死判定できる

(3)親族に臓器を優先提供する意思を書面で表示できる

(4)政府は虐待児から臓器が提供されないようにする






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2009年7月19日日曜日

:遠近法と叙情


● 2008/07[2008/04]



 山東京伝・勝川春亭の合巻「風流伽三味線」には遠近法の絵(図98)がある。



 橋の下に遠景を望む構図が秀逸だが、これは橋の下に遠く富士山を望む北斎の浮世絵「たかばしのふじ」の影響だ。
 
 図99は、北斎の遠近法。
 寛政初年ごろから、西洋銅版画の影響を受け、洋風表現を試みた北斎は、挿絵にもその手法を導入している。



 馬琴と組んだこの読本「青砥藤綱模稜案」では、遊郭の廊下を完全な遠近法で描いている。
 西洋の透視図法に基づいて精密に感覚を表現し、奥行きのある空間が見事に描かれている。

 北斎は叙情の世界とも無縁でなかった。
 馬琴の読本「墨田川梅柳新書」の図72は、平行盛の壇ノ浦での討ち死にの悲報を聞いて、京に留守居する愛妾の初花が’大沢池に身を投げ後を追う場面。



 乳母が引き止める手は空しく打ち掛けのみを掴み、女は身を翻して水中に沈む。
 外れ落ちる櫛や懐紙。
 飛び立つ水鳥とその水跡。
 やわらかい曲線の反復で画面がまとめられ、悲劇に優美さを与えている。

 最後に、情緒ゆたかな口絵の傑作を紹介して終わろう。
 図100は、馬琴の読本「山七全伝南かの夢」から



 秋草をバックにして、大きくくりぬかれた軍配形の画面の中は墨つぶしの暗闇、ボカシでうっすらと浮き上がった地面には訳ありの男女の芸人。
 女は三勝(さんかつ)で、笠も目深になぎ節(投節ともいう)の門付で日銭を稼ぐ。
 左は紙の面をかぶり「とぞ申ける」と唄って同じあたりを流す平三。
 実は二人は養父とその娘で、泊まる宿も隣り合わせなのだが、互いに気づかない、という設定。
 胡弓(本文では三味線)の音が夜の闇に響き、つきまとう野良犬も雰囲気を助けている。







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:葛飾北斎「爆発と光」


● 2008/07[2008/04]



 爆発の光景は、葛飾北斎の時代、火山の爆発などの折などを除けば、ほとんど目にすることはなかっただろう。
 ところが北斎の読本挿絵にはこれがちゃんと描かれている。
 


 馬琴・北斎の読本「新編水滸画伝」の中の一図だ。
 洪信が、江西信州の竜虎山で「伏魔之殿」を発見し、住持の制止を振り切って門を開くと、大音響とともに一筋の黒気が建物を破って立ち昇る。
 「半空にたな引つつ、砕けて百余道の金光と変じ、四面八方に飛び去りぬ」と馬琴は述べている。
 想像力豊かな描写だが、北斎はこれを、図73のように表現した。

 それにしても、この放射線状はいったい何か。
 閃光か、巻き上げられた土砂か、これだけではわからないが、2年後に出された「椿説弓張月」の中に、同様の爆発シーンがあり(図74)、こちらの白い放射線状は閃光らしく思える。



 一方、黒いむくむくのほうも「椿説弓張月」で、図76のようなすばらしい活力的描写が生み出されている。
 隠岐に配流となった崇徳院が、憤激のあまりみずからの手で天狗姿の魔王へと変身し、空中に上がるところである。
 


 同じく「椿説弓張月」の中に載る、琉球王が諌めを聞かず、ミズチ塚を暴いて怪僧蒙雲を出現させてしまう場面(図77)になると、閃光が旭日のような縞状になり、派手に吹き飛ばされる人たちの描写が愉快だ。
 


 爆発シーンがこれで、北斎のもの、そして江戸市民のものとなったわけで、この雄渾な場面はさぞかし読者の喝采をあびただろう。

 北斎の革命的な表現のもう一例。
 二見開きにわたって大胆な展開がなされている。
 「霜夜星」のお沢の幽霊出現の場面(図78、図79)だが、ここで伊兵衛の鉄砲の威力をあらわしている。



 発射の振動で屋根瓦が崩れおちる(図78、図80)。
 弾道の両側の薄黒摺りの空間にある白抜きの渦は、空気の振動であろう。
 次の見開きでは、その渦が黒雲の中で複雑に増殖し、お沢もこの新兵器には勝てず、大きな渦の影に隠れるように笑って姿を消す。
 置き土産に落としたのは憎い歓次の首。
 首は縁側に噛みついている(図78)。

 大胆な光線表現をお目にかけよう。
 読本「金花夕映」の図81は竜女からレーザー光線のようにビカビカビカビカと光が放たれている。
 マンガでもよく出てくるような手法である。



 「霜夜星」の図82もおなじような光線が描かれている。
 北斎が摩訶不思議な光の世界を現出させて、超現実の雰囲気が印象的である。




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:「幽霊」と「妖怪」


● 2008/07[2008/04]



 「幽霊」と「妖怪」とはどう区別するか。
 区別されるのか、されないのか。
 このことについて学者の間で議論がある。

 小松和彦氏は、幽霊を異界に住む妖怪の一つのタイプであり、生前の形で生者の前に現れる死霊と考える(「妖怪学新孝」)。
 「異界」は、「日常生活の場所と時間の外にある世界のこと」と辞書にある。
 すなわち、現実界に対するもの、人間の存在を超えた別世界である。
 もう一つの、ではなく、「たくさんの別世界」といってもよい
 ただし、極楽や浄土を異界と呼ぶには違和感がある。
 異界とは不安や不思議さ、恐怖を伴うものだからだ。

 これに対して諏訪春雄氏は、人間であったもの、つまり死者が、人間の形をとって現れるものが’幽霊であると定義し、妖怪一般と区別する。
 諏訪氏によれば、妖怪は異界に、幽霊は他界と、それぞれ住む場所も違うことになる(「日本の幽霊」)。
 ここでは便宜上、幽霊は妖怪とは別種という説に従っておこう。

 2005年から翌年にかけて、国際交流基金の援助により、パリ日本文化会館(Paris)で「YOKAI 日本のおばけ図鑑」展が催された。


● 「YOKAI」 2005 Paris

 小松和彦氏の企画により、展示は妖怪と幽霊との共演である。
 なかなかの好評で大入りだったが、興味あることに、パリ市民に受けたのは妖怪ではなく幽霊だった。


● 幽霊


 ほとんど無名の戯作者神屋蓬州(1776--1832)の自作自画「天縁奇遇」によるこの怪談物の口絵いっぱいに描かれたのは、野風という名の悪女(図40)。



 夫の海賊横島軍藤六が殺した、赤松春時の妻咲花の怨念に祟られ、全身99カ所に口ができ、わが子を食べたりする酷悪な有様、ついには見世物に出される。
 そこへ咲花の子、米吉が通りかかると、99個の口が一斉に開き、咲花の霊がわが身と夫の悲運を米吉に訴えかける。
 このおぞましい化け物のイメージはどこからきたのだろうか。

 鳥山石燕(1712--1788)の「図画百鬼夜行」には、腕に百の目があるという「百々目鬼(どどめき)」が載せられているが、絵に描かれた女性の姿はいたって優しく、野風のイメージとは程遠い。
 これによく似たイメージとしては、水木しげるの描く「百目(ひゃくめ)」がある(図40)。



 全身に目のついた恐ろしい姿でvある。
 「百目」は銅版画風の陰影が画像の恐ろしさを印象づけているが、野風の場合もうごめく口の描写に、当時流行の銅版がの手法が応用され、ゾッとする生々しさをつくりだしている。
 野風とは元来叙情的な言葉のはずだが、この図のおかげでとんだグロテスクなイメージに置き換えられてしまった。


 ガイコツやドクロは、幽霊と妖怪の中間にあるが、ここでは妖怪の中に入れておこう。
 ガイコツはしの象徴として西洋の文学や絵画ではごくおなじみのものである。
 乾燥した気候が死者をミイラやガイコツとして保存するに適しているという事情がそのウラにある。
 これに対して湿気の多い日本では、土葬された屍は、腐敗し、骨すら満足に残らない。
 そのためだろうか、中世までドクロが絵画のモチーフになることはあまりなかった。
 だが、江戸時代後半になると、西洋から輸入された解剖書の刺激から、ガイコツやドクロがさかんに描かれるようになった。

 山東京伝・歌川豊広(?--1829)コンビが入念に描き出したのは、ガイコツの住む荒れ屋敷の様である(図50)。



 読本「浮世丹全伝」の絵である。
 磯之丞は京に留学中、女童に導かれて高貴な館で美しい姫に会い、契りを交わし通いつめる。
 いぶかった家僕があとをつけると、見たのは磯之丞が上機嫌でガイコツのもてなしを受けるという信じがたい光景で、姫は磯之丞の前世の妻の幽鬼だった。
 上田秋成の「雨月物語」を思わせるシーン。
 牡丹灯篭の下に立ってるてるてる坊主のような女の子(実は御伽ぼう子という幼児に持たせる魔よけ)は、案内した女童だろうか。




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:葛飾北斎「幻想世界」


● 2008/07[2008/04]



 86歳の北斎が、上方の山田意斎(1788--1846)と組んで手がけた読本「釈迦御一代図絵」は、彼のおびただしい挿絵の中でもとりわけて力強い幻想性を発揮したもの。
 見開きを縦に用いた雄渾な構図が多いが、その描写はどこまでも繊細で、あいまいな線が一本もないほど完成されている。
 北斎の才能が際立つ、その「釈迦御一代図絵」をここでとりあげよう。









 北斎描く執念の女の首。
 図14は柳亭種彦(1783--1842)作の読本「霜夜星」の中の一場面だ。
 手で刀を押さえて喰らいつく姿はすさまじい。



 図18は種彦と組んだ読本「勢田橋竜女本地」の一図。
 ビアズレーの「サロメ」の挿絵(1894 図19)を連想させて印象的だ。
 二度刷りの手法を生かして複雑な幻想的情景を見事に表している。




 北斎なしでは幽霊画の世界は成り立たない。
 図35はその真骨頂ともいうべき読本「恋夢のうきはし」である。



 夜八・お丑夫婦が、昔殺した座頭淡都(あわい)の亡霊に復習されるところ。
 墨でつぶした真っ暗闇の中に、洋風の陰影を薄墨で施した奇怪な顔が、蟹の爪のような手の磁力でお丑を引き寄せる。
 何も気づかずに眠りこける夫。
 腰紐は蛇となり、皿はケタケタと笑う。

 これに劣らず戦慄的なのは、図36の一図。



 「霜夜星」のお沢の幽霊が鎌倉で災いをなす場面である。
 夫に虐げられて入水自殺した醜女お沢の亡霊パワーが、夫を亡き者にしたのちもなを収まらず、通行人を悩ましているところである。
 これと不思議によく似た恐ろしい顔のクローズアップが、大友克洋の「AKIRA」PART4に出てくる。




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奇想の江戸挿絵:江戸後期挿絵の魅力:辻惟雄


● 2008/07[2008/04]



はじめに

 日本人は昔も今も、文章に絵をつけたがる。
 物語を文字で追ったり聞くだけでなく、目に見えるイメージとして体験することが好きなのだ。
 平安時代に絵物語が発達したのはそのためにほかならない。
 絵物語は、中性の御伽草子絵巻や奈良絵本となって普及する。
 近世の木版冊子の中では、木版の挿絵が、文字を助け、あるいは文字を読めないものの助けとして、大きな役割を果たしてきた。
 江戸時代後期の町人文学といえば、遊里の機微をうかがった洒落本から黄表紙へと進む戯作(げさく)の動きがまずとり上げられる。
 この黄表紙や洒落本作家を代表する恋川春町(1744--1789)や山東京伝(1761--1816)は職業絵師そこのけに挿絵も得意とした。
 黄表紙のはじまりとされる恋川春町の「金々先生栄華夢」をはじめ、黄表紙には自作自画のものが多い。
 のちに読本挿絵の第一人者となる北斎も、春朗と称した若い頃は、自作自画の黄表紙作家だった。
 もともと子どもむけの絵本から出発した黄表紙だから当然であるが、大人の文学になっても「絵本」なのが江戸の戯作の特色である。

 黄表紙や洒落本は寛政の改革で手厳しい弾圧にあう。
 代わって注目されたのが「読本」である
 洒落本、黄表紙の行き詰まり状況から転向を試みた山東京伝や博学の曲亭馬琴が読本作者の二大スターであり、京伝は歌川豊国(1769--1825)と、馬琴は葛飾北斎(1760--1849)と、それぞれコンビを組んで活躍した。
 文化年間(1804--1818)が読本の黄金時代である。
 読本は園なのごとく「読む」ことを主眼した小説である。
 読本のテキストは、それだけ読んだのでは、入り組んだ筋書きと荒唐無稽な場面の連続が読者を当惑させ、ついてゆくのが大変である。
 挿絵がそこで大きな役を果たすことになる。

 読本の挿絵は、江戸後期の大衆文化が生んだ「妖しい花」というべき魅力的な存在なのである。
 挿絵あっての読本ではないかとさえ、わたしは思う。
 読本のテキストの波瀾万丈、摩訶不思議な内容を、読者にイメージとしてより強く訴えるために、画家は白黒木版画の小画面という厳しい制約を逆手にとって、さまざまな表現手法を生み出し、斬新で強烈な画面を作りだす。
 絵巻のお株を奪った2ページ続き、3ページ続きの長い画面が物語のクライマックスで現れ、ページをくくる読者の好奇心をいやが上にもかきたてた上で、最後のページに驚きのイメージが出現するという仕掛けである。

 読本挿絵の画面は、どれも「動きのイリュージョン」を作りだそうとしている。
 人間は「動く物質」であるのに、それを「動かない物質」としてスタテイック(静的)にとらえるのが西洋流だとすると、人間や妖怪や自然までもを「運動の相のもとに」とらえる読本の挿絵の手法、ひいては世界観は近代の哲学者のお眼鏡にかなやもしれない。






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2009年7月11日土曜日

朗読者:あとがき


● 2000/07[2000/04]



 「ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』以来、ドイツ文学では最大の世界的成功を収めた作品」。
 2000年1月のある号で、週刊誌「シュピーゲル」はそんなふうに報じた。
 ベルンハイト・シュリンク。
 1944年生まれ、現在は伝統あるフンボルト大学(ベルリン)の教授で、専門は『朗読者』の主人公と同じ法律学(ドイツ統一後、それまで東ベルリンにあったフンボルト大学に招聘された最初の西ドイツの教授がかれだったしうだ)。
 これまでミステリー小説を3冊出版し、そのうち一作はテレビドラマにもなっているが、作家としてはまったく無名に近かった。
 周囲のとらえ方は、大学の仕事の合間に余技でミステリー小説も書いてしまう器用な先生、といった程度だっただろう。
 しかし、1995年に出版した『朗読者』の大ヒットは、彼にとって本業と余技を逆転させてしまった感がある。
 この作品は発売後5年間で20以上の言語に翻訳され、アメリカでは200万部を超えるミリオンセラーになった。
 作品の映画権利は「恋におちたシェイクスピア」などを扱った映画会社ミラマックスが獲得し、「イングリッシュ・ペイシェント」の監督でもあるアンソニー・ミンゲラがメガホンをとる予定だという。

 小説の没頭で描かれる15歳の少年と彼の母親のような年齢の女性との恋愛はたしかにセンセーショナルなテーマであるが、ナチス時代の犯罪をどうとらえるかという重い問題も含んだこの本が、ここまで国際的な成功を収めた背景は、いったいどこにあるのだろう。
 この物語の一番の特徴は、かって愛した女性が戦犯として裁かれることに大きな衝撃を受けながらも、彼女を図式的・短絡的に裁くことはせず、なんとか理解しようとする主人公ミヒャエルの姿勢にあるように思われる。
 彼女の突然の失踪に傷つき、法廷での再会後に知った彼女の過去に苦しみ、しかしそれでも彼女にまつわる記憶を断ち切ることはせず、十年間も刑務所に朗読テープを送り続けたミヒャエル。
 彼の律儀さ、粘り強さには、ある種のドイツ人らしさが表れているように思う。
 前の世代が犯したナチズムという過失を見つめ続けることを余儀なくなくされ、それによって苦しむという体験は、敗戦後の民主主義教育を受けて育った彼の世代に共通のものだといえよう。

 戦後の歴史教育が抱える困難にも、シェリンクは光を当てようとする。
 ステレオタイプ化した収容所のイメージを頭に叩き込むだけでは、本当の問題を理解することにはならない。
 主人公のミヒャエルは自分があまりに収容所の実態について知らないことを自覚し、収容所の跡地を訪れるべくヒッチハイクの旅にでる。
 しかし、いまや無人の収容所跡に立ってみても、そこが実際に運営されていたころのことを思い浮かべるのは難しい。
 残された建物の外観は、どこにでもありそうなアットホームな印象すら与えるのだから。
 当時の人々の立場に立って考え、理解することの難しさがここでも強調されている。
 
 「朗読者も場合は、1990年代初めの東ベルリンとの出会いが重要な役割を演じていました。」
 執筆の動機を聞かれ、シュリンクは右のように答えている。
 統一後の東ベルリンは灰色で、シュリンクが子ども時代を過ごした1950年代のハイデルベルグに似ていた、というのだ。
 通りを歩き、家々を眺めながら、彼の中で物語が膨らんでいった。
 シュリンクの目的は声高に物を教えることではない。
 ここで語られる事件についての判断は、読者に委ねられている。
 ハンナとミヒャエルの、その後の生涯。
 ハンナの最期を、読者はどのように受けとめられるだろうか。












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2009年7月10日金曜日

:終章 砂時計の記録


● 1994/05[1981/07]



 北勲が各地の気象台や測候所の勤務を経て広島地方気象台に戻ったのは、昭和42年6月であった。

 あの年のことは、気象台にとっても、広島にとっても記録に残しておく」必要がある。
 自分が退職してしまえば、当時を知っている者はいなくなるし、あと十年も経てば資料は何もかも失くなってしまうだろう。
 広島に戻って来たのは何かのめぐり合わせかも知れない。
 この機会に当時のことを記録にまとめて残しておくのだ


 原爆を受けた広島市の朝の図書館には終戦当時の新聞資料などが著しく欠けていたため、北は呉市の図書館まで出かけた。
 呉市の図書館に保存されている終戦当時の新聞記事を読むと、当時の社会情勢が髣髴として想いだされ、北は飽くことを知らなかった。
 新聞をめくっていると思わずいろいろな記事に目が移った。
 昭和20年8月末の紙面に、「死の測候所からの奇跡の吉報」の」見出しで出ている次のような記事は感動的であった。

 また台風がやってくる。
 こんどの台風は25日朝、南大東島付近に現れた740ミリの中型で北東に進んでいふ。-----
 資料蒐集に躍起になっている気象台に24日夜、突如奇跡の吉報が舞い込んだ。
 沖大東島測候所から実に2箇月ぶりに実況報告があったのだ。
 その電報によって気象台では26日に来襲する台風の存在を確信することができたのであった。
 久しく音信不通となっていた沖大東島からどうしていまごろひょっこり電報がきたのか?。
 同測候所には所長以下十数名の所員が戦時気象に活躍していたのだが、何分にも沖縄と目と鼻の先の近距離にあるので、連日連夜の空襲と艦砲射撃に見舞われ無電塔は破壊されるし、建物は吹っ飛ぶ、もちろん燃料は尽きるし、食料もなくなった。
 そして所員も戦死したり、病死したりして、残りの所員は立った数名になってしまったという。
 同等にはひとかけらの土とてないのにどうして食いつないでいたのか、日一日と餓え迫る穴居生活をどうしていままで頑張ってきたのか?

 沖大東島測候所の場合は広島の気象台とはまた違った形で、測候所員たちが生命の危険にさらされ、多数の戦死者を出している。
 にもかかわわず台風接近の観測データを打電して来るだけの業務を続けていたのだ。
 北ははじめて知った。
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 沖大東島測候所の場合といい、呉鎮守府測候所の場合といい、生活も生命も危険にさらされた中で測候所員に観測を続けさせたものはなんだったのか。
 広島の気象台が’置かれた状況も同じようなものであった。
 このほかにもまだ危難に耐え抜いた気象台や測候所があったかもしれない。
 北は、あの頃の気象台を振り返って考えたとき、食料もろくになく、病人が続出し、ある者は肉親を原爆で失いつつもなを必死になって気象台にしがみついて生きてきた台員たちの姿が浮かんできた。
 自分もそうだったが、原爆の後も気象台に踏みとどまった台員たちは、そうするよりほかに生活の糧を得る道がなかったのだ。
 それは惰性で生き、惰性で仕事をしていたという面があったことも否定できない。
 「戦争に勝つため」 という国家目的が敗戦によって崩壊したとき、あまりの衝撃に人々は精神的支柱を失い、生きる目的を失った。
 「何のために何を為すべきか」が曖昧なまま、さりとてほかにすることがないため、ただ昨日までやってきたことを今日もやるという’虚脱の毎日でもあったのだ。
 だが、気象台や測候所の定時の観測を欠測することなく、科学的にみても決してはずかしくない記録を残したということは、単なる惰性とか、ただ食うためという理由だけで為しえたであろうか。

 自問自答する中で、北は一時代の気象台員や測候所員を支えた観測精神について思い浮かべた。
 そして、そうした気象台員や測候所員を率いて巨峰のようにそびえたっていた岡田竹松や藤原咲平について思った。






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:証言の解析作業と調査報告


● 1994/05[1981/07]



 宇田、菅原、北、山根、西田、中根の6人が収集した聞き書きは実に百数十件に達していた。
 各人のノートに記された聞き書きは、一つ一つがあの日何が起こったかを生き生きと証言していた。
 
 宇田の解析と報告文の作成を手伝うことは、台員たちにとって大きな勉強となった。
 とりわけ原爆の日に江波山の上から炎上する市街地を終日眺めていた北や山根にとって、百数十人の証言の解析作業は、あの不気味に貼ったツンした巨大な積乱雲の下で何が起こっていたかを克明に教えてくれるものであった。
 「できるだけ多くの体験者に会って聞きとりをして、原爆当日の地域別の状況を再現してみる以外に、研究のてがかりはない」という宇田の方針が、これほどまでに威力に充ちたデータを生み出そうとは、はじめのうちは考えても見なかった。
 「聞き書き」という一見原始的な調査方法でも、その狙いと手法がしっかりしていれば、科学的調査の方法として十分に有効性を持ち得るのだということを、みなはじめて知ったのだった。

 主要テーマの解析作業が峠を越したとき、宇田は、

 このような解析の結果だけでなく、聞きとった証言自体も後世に残すべき記録だと思う。
 だから報告書には、できるだけ多くの証言を付録資料として載せるつもりだ。
 もちろん百数十人もの聞き書きの前文を載せることは、報告書のスペースの関係で無理だから、原爆災害の科学的研究に必要と思われる部分に重点を置いた聞き書きの抄録にしようと思うのだが

と言った。
 枕崎台風の報告書をまとめたときと同じ考えであった。
 しかし、今回の場合は、枕崎台風の調査のときより、聞き書きの数がはるかに多く、証言内容も多岐に渡っていた。
 宇田の考えを、台員たちは全面的に支持した。
 廃墟の町を歩き回り、あるいは不便な山奥まで出かけて行って調べた聞き書きが、学術研究会議の権威ある学術報告書に掲載されるとなれば、それだけで報われるような気がしたのだ。

 こうして、広島管区気象台による原爆調査報告には、「体験談聴取録(抄)」として116人にのぼる体験談の要旨が掲載されることになったのである。
 それは、決して人間ドラマを記した記録ではないが、被爆直後に収集された唯一の体系的な証言として貴重なものであり、いわゆる原爆体験を記録する積極的な運動が戦後十数年も経ってから始められたことと照らし合わせると、被爆直後の困難な時期にこつこつと証言収集に歩き回った気象台の台員たちの発想と隠れた努力の意義は高い。

 「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」は、控えを気象台に残して、中央気象台に送られた。
 ところが、中央からの連絡によると、GHQが日本人による原爆研究の一般への発表は許可しない、という方針を明らかにしため、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会は、全体の報告書をまとめて刊行することができるかどうかわからない情勢になったという。

 学術研究会議の組織を引き継いだ日本学術会議が原子爆弾災害調査報告書刊行委員会を設けて、「原子爆弾災害調査報告書」の全文を刊行したのは、日本が独立した後、昭和28年3月であった。
 宇田、菅原、北らにとっては、実に8年目にしてようやく活字となった広島管区気象台の報告書を、ばらばらになった各人の勤務地で、手にとることができたのであった。






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:現地調査と調査項目


● 1994/05[1981/07]



 宇田(道隆)は言った。

 気象台の気象記録だけでなく、できるだけ現地を実地調査をして、災害の全貌を科学的に把握して、総合的な報告書をまとめよということで、具体的な調査項目や方法は一任されています。
 現地の気象台では、できるだけ多くのデータを集めて、ありのままの実態を明らかにするという調査方法がよいのではないか。
 実態を調査するといっても、この焼け野原に観測機械を配置しておいたわけではないのだから、私の考えでは、できるだけ多くの体験者に会って聞き取りをして、原爆当日の地域別の状況を再現してみる意外に、研究の手がかりはないのではないかと思う。
 聞き取った内容を、地域別、時間別に地図の上にプロットすれば、いろいろなことがわかってくるのではないか。

 台風の方も同じだ。
 災害地に行って、罹災者から当日夜の状況について聞き取りするのだ。
 大変な作業だが、誰かがやって記録に残さなければ、この世界に前例のない原子爆弾と台風の二重災害の体験はいつしか忘れ去られてしまう

 北は「こういう調査は、人々の記憶に生々しいうちにやらないと、正確な聞きとりができませんから、今日からでも始めたいですね」と申し出た。

 宇田は熱心になってきた。

 実は僕はすでに一人で市内を歩いて聞きとりを始めているのだ。
 なかなか大変なことだ。
 原爆であれだけひどい目にあって、まだ2ケ月と経っていない、話を聞こうとすると、怒り出す人もいてな、人が死ぬような苦しみをしたのに何が面白いのだ、もうあんなことは結構だ、というのだ。
 こちらの趣旨を説明して理解してくれる人もいるが、なぐられそうになったこともあるよ。
 ともかく、話を聞く前に、こちらの調査の重要性についてよく納得してもらわなければ、協力は得られない。
 それから、聞き取りの要領だが、相手の話をそのまま記すことが、いちばん大切なことだ。
 こちらの先入観を入れたり、相手の話に食い違いがあったときに無理に辻褄をあわせようとしたりしてはいけない。
 人間の記憶というものは、誤りを含んでいることが多いから、無理に辻褄をあわせようとすると、誤りに誤りを重ねることになりかねない。
 話に矛盾があると思っても、そのときはそのまま記録して、あとで検討すればよい。
 調査研究の聞きとりというのは、そういうやりかたをするのだ。


 北も新たな提案をした。

 いろいろな調査をするうえで、いちばん基本になるのは、やはり爆心の正確な位置だろうと思うのです。
 爆心地がどこで、爆心の高度がどれ位だったのかを決めておかないと、爆風や気象変化などを解析するための原点があいまいになってしまいます。
 街を歩いていますと、ピカの熱線を受けた壁や橋に影が残っているのに気づきました。
 遮蔽物と影の位置から熱線の入射角を測量すれば、爆心の方位と仰角がわかります。
 これを数箇所でやって地図上に方位を記入し、各方位の延長線が交差したところが爆心地、爆心地がわかれば仰角から爆心の高度を計算で求めることができます。
 爆心の決定については、学術会議の物理の専門の方がおやりになるとは思いますが、この程度の調査なら私たちの手でもできますから、まず爆心地の計測から手をつけたいと思うのです。
 公式の爆心決定を待っていたのでは、私たちの調査研究をまとめるのに間に合わないですから。


 こうして話し合った結果、調査項目として考えられた主なものは次の通りであった。
◆爆発当時の景況----爆発の瞬間の火の玉の状況から、キノコ雲の発生、積乱雲の発達に至る過程を明らかにする。
◆爆心の決定。
◆爆心地を中心にした周辺の風がどう変化したか。
◆爆発後の降雨現象----降雨域と降雨の強度、時間の経過に伴う雨域の移動、黒い雨となった原因と黒い雨の性質などを明らかにする。
◆飛撤降下物の範囲と内容。
◆爆風の強さと破壊現象----爆心からの距離による破壊状況の変化を調べる。
◆火傷と火災----熱線による火傷は、どの範囲まで及んだか。
建物などへの自然着火状況、延焼、火災の盛衰、焼失地域などを明らかにする。

 膨大な作業量になりそうだったが、気象台が行うべき調査として、どれ一つとして欠かすこのとできないものばかりであった。

 このように調査の狙いをはっきりさせておけば、聞きとりをするとき、何を聞き出せばよいかがわかってよい。
 漫然と体験談を聞いて’いたのでは、科学的調査のてがかりを掴むことはできんから。

 宇田は、最後にこういって話を締めくくった。

 調査は始まった。
 芋弁当を下げて、焼け跡のバラックを訪ね、あるいは焼け残った周辺部の傾きかけた家を訪ね、被爆当日の体験談を聞くという、文字通り足で調べる調査がコツコツと続けられた。
 歩きながら、鉄塔の破損や倒れ方、建物の倒壊状況、墓石の倒壊状況、なども詳しく調査され、写真も撮られた。






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:気象原簿と観測精神


● 1994/05[1981/07]



「気象原簿は絶対に焼かれるようなことがあってはならぬ。
 防空壕の最も安全な場所に移して、保存に万全を期せ」
 平野台長が、北にこう命じたのは、呉市大空襲の数日後であった。
 北をはじめ台員たちは、台長の命令に従い直ちに明治以来の気象原簿を整理した。
 原簿はじつに「151冊」もあった。
 これらすべてを保存箱に詰めて、構内の横穴式防空壕に運んだ。
 7月7日であった。

 気象原簿は、長い年月の間、一日も欠かさず観測し続けてきたデータの記録簿であり、気象人にとって命に匹敵するものともいえる代々の仕事の結晶であった。
 気象観測は、いかなる事態のもとでも定時に行わなければならない、とういのが気象人の職業訓であり、欠測によってデータに空白ができることは、気象業務に携わる者にとって許されないことであった。
 この職業訓は「観測精神」と呼ばれた。
 だから、観測記録の集積であり、その土地の気象の歴史でもある気象原簿を焼失するなどということは、絶対にあり得べからざることだった。
 なんとしても気象原簿は守らなければならなかった。

 「観測精神」とは岡田武松が創った言葉であった。
 それは「測候精神」といわれることもあった。
 「観測精神とは----」
と、岡田はその哲学を機会あるごとにいろいろな表現で語った。


 観測精神は、軍人精神とは違う。
 観測精神とは、あくまで科学者の精神である。
 自然現象は二度と繰り返されない。
 観測とは、自然現象を性格に記録することである。
 同じことが二度と起こらない自然現象を「欠測」してはいけない。
 それではデータの価値が激減するからである。
 まして記録をごまかしたり、いい加減な記録をとったりすることは科学者として失格である。
 気象人は単なる技術屋ではない。
 地球物理学者としての自負心と責任を持たなければならない。
 観測とは、強制されてやるものではなく、自分の全人格と全知識をこめて当たるものなのである。

 観測の記録は、精度を増すために測器による読み取り値を用いるが、実は観測者の観察にによる諸現象の記述が、最も大切なものなのである。
 然るにどうしたことか、観測とは測器の読み取りだけと速断するようになり、観察を軽視するようになってしまった。
 近頃では観測は初心の女でも子どもでもできると考えるものがあるが、これは測器の読み取りと観測をごっちゃにしたものである。
 単に読み取りだけならば、ある種のものは自記器械による方がましである。

 気象全体の模様などは決して測器には出てこない。
 これらは観測者が絶大の注意を払って観察し、できるだけ詳細に書き付けておくより方法はない。
 従って測器の読み取りにしたところで、軽々しくこれを行うべきではない。
 十分な注意と熟達した技術で行わなければならないという精神がそこの宿っていなければならない。
 それゆえに、観測者で当番のものは、寸分たりとも気を他に転ずることはできないのは勿論だが、当番でない者も、常に自分は観測者であるという心がけで注意していなければならない。

 気象学の進歩は観測の成果によって進歩したのではない、力学や熱力学を応用したためである、と従来言われている。
 表面だけ見ると、なるほど首肯される。
 しかし、力学や熱力学を応用するには、その基礎になるものがなくては叶わない。
 これは気象観測の成果から得られたものである。
 気象学の進歩は天気図に負うところが多大であるが、天気図は気象観測を資料として作成されるのである。







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空白の天気図:あとがき:柳田邦男


● 1994/05[1981/07]



 昭和20年8月6日の広島については、多くの記録や文学作品や学術論文がある。
 その直後の9月17日に広島を襲った「枕崎台風」の惨禍に関する記録は少ない。
 原子爆弾によって打ちひしがれた広島の人々が、その傷も癒えぬうちに(注:42日後)、未曾有の暴風雨と洪水におそわれた歴史的事件を、今日知る人は果たして何人いるだろうか。
 原子爆弾による広島の死者および行方不明者は二十数万人にのぼったといわれる。
 これに対して枕崎台風による広島県下の死者および行方不明者は2,012人である。
 前者が創造を絶する非日常的な数字であるのに対して、後者は現実的で日常的な数字であるように見える。
 枕崎台風の悲劇が、原爆被害の巨大な影に隠されて見えなくなっているのは、ひとえにこの数字の圧倒的な落差によるためかも知れない。
 だが、冷静に数字を見つめるならば、一夜にして2千人を越える人命が失われたということは、尋常なことではない。

 気象台の台員が日々の観察を欠測なく続行するということは、あまりにもあたりまえのように見えるかもしれないが、それは背広を着た安穏な時代の机上の思考に過ぎない。

 昭和46年になって、気象庁の機関紙「測候時報」1月号に、原爆当時、広島地方気象台の技術主任だった北勲氏が執筆した「終戦年の広島地方気象台」が掲載された。
 この記事を読んだとき、私の照準はしっかりと定まった。
 広島地方気象台は爆心地から3キロ半ほど離れた江波山の上にあったため、爆風による被害は受けたが、焼失は免れることができた。
 台員たちは負傷しながらも、観測業務を続行した。
 北氏の記録は、その状況を簡潔に生き生きと伝えていた。

 原子爆弾によって広島が壊滅した後、広島地方気象台に対して中央気象台が救援の手を差しのべたのは何日くらい経ってからであったか、公的な記録は何一つ残っていない。
 北氏はインタビューで次のように語った。

 原爆の後しばらくの間は、一週間くらいだったでしょうか、中央からは何の連絡もないし、こちらからも連絡をすることができず、われわれはもう忘れ去られてしまったのではないかとさえ思ったほどでした。
 台員たちの気持ちも、そんなわけで不安定なものでした。
 そのうち8月15日になって玉音放送でした。
 私たちは、国が瓦解したのではないかと心配したりしたのですが、どうしてよいかもわからず、ともかく観測だけはやってようじゃないかとということで、その日暮らしをしていました。
 東京から中央気象台の人がやって来たのは、かなり経ってからで、8月15日より後だったように思います。
 事務系の人でした。
 リュックを背負っていたのを覚えています。
 2,3時間私たちの話を聞いて帰って行きました。
 その人が中央気象台から当座の業務のためにとお金を持って来てくれたのです。
 応急的な資金としてはとても助かりました。


 北氏は後日、次のような手紙をくださった。

 中央から連絡員が来られた日がいつだったかよく思い出せません。
 あるいは8月15日以前だったかもしれません。
 広島駅付近の破壊状況から鉄道が部分的にでも通じたのは数日後だったようです。
 学術調査団の一行が8月10日正午ころ、入市していますので、10日頃には何とか来られたはずですから、あるいはその頃だったかもしれません。
 リュックを負い、ゲートルを巻いた方(2人だった?)と庁舎玄関ホールのところで出会い、挨拶をして、台内外を案内し、官舎の方も見てもらい、現状を中央に報告してもらうように以来しました。


 中央気象台が広島に職員を派遣して、緊急の資金としてなにがしかの金を届けたことは間違いないようだが、誰がいつどのくらいの金を届けたのかとなると、どうにもはっきりしない。
 中央気象台が広島に救援隊を派遣しようと思えば、8月15日以前でも可能であった。
 しかし、中央気象台がそのように速やかな救援の処置をとるためには、広島の被害について詳しい情報を入手し得たこと、中央気象台側に地方の気象官署の戦災復旧に即応できるだけの体制と資金的なゆとりがあったこと、中央気象台長らが的確な判断ができたこと、などの条件が必要だったはずである。

 長い時の流れの中で埋没し、失われてしまった多くの構成分子を何らかの形で補う必要があった。
 ところどころ欠けた結晶格子の点と点をつなぎ合わせ、線と線を交叉させて、原型を復元させる作業は、原型の全体像をどうとらえるかという構想力の問題と関わりあう。
 私はまさにその原型復元作業において小説的手法を用いた。




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2009年7月9日木曜日

:産業社会の終末


● 2008/07[2008/05]



上野:
 辻井さんご自身の著作「ユートピアの消滅」(集英社:2000年)の中で
 「21世紀に在るべきユートピアニズムを考える方法としては、『民主主義はユートピア思想の解毒剤であり、ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた仏である』という思想枠であるだろうか」
と、自ら問いを立てておられます。
 つまり、ユートピア思想というものを、「いかに解毒しながら制御するか」が重要な問いなのだ、と書かれています。
辻井:
 自分で書いたことだから、やはり賛成ですね。
上野:
 卑近なコトバで翻訳しますと、ユートピアというのは集合的理想主義だから、共同体が絡む。
 集合的な理想主義というものは、ないよりあるほうがずっとよい。
 ただし、理想主義は行き過ぎると「ないほうが、あるよりもっとまし」だっていう事態を、必要以上につくりだす。
 その毒をいかに制御するか、という問が立つと。

辻井:
 私は企業集団が理想主義を掲げた次代は、もうとっくに終わったと思っています。
 1970年代が終わった頃からは、理想主義などということは、まあ冗談でも口に出せないような状態だった、という風に思っています。
 私がいま感じている危機意識の実態はなにかと申しますと、世界が「産業社会の終末」を迎えているということです。
 変な言い方をすれば、これは社会主義の崩壊によって加速された危機だと思っています。
 東西冷戦がなくなってからの自由主義経済の堕落は、予想よりはるかにスピードを増し、深刻化してきています。
 「大企業に対する対抗力」を持たなかったために、アメリカ経済のみならず世界の市場経済のマイナス面が噴出してきた。
 日本市場のスケールの縮小と、経営者の堕落は相当なスピードで進んでいる。
 ですから日本の市場経済もどこかに対抗軸を作っておかないと、止めなく堕落するだろうと思っています。
上野:
 チェック機能が市場ごと働くなるということですね。
 金融市場はまさにその典型です。
 にもかかわらず、そこに小口の投資家も大口の金融資本もすべて巻き込まれました。
辻井:
 いまのアメリカのサブプライムローンの不安が、その例ですね。
 社会主義が崩壊して、市場経済は有効な対抗軸を見つけることができなくなった。
 それは対抗軸がないほうがラクですから。
 でも対抗軸を見つけられなければ、予測としては、産業社会全体が破滅に向かうということになると思います。
上野:
 市場経済そのものの暴走を食い止めることができない情況にある。
 それこそ民主主義に百の自己決定が累積されることによって、金融不安が起きている。
 つまり、冷戦時代に対抗軸が持っていたチェック機能が、もはや制御装置になりえなくなったとしたら、それとは別に何らかの公共的な価値が必要だという声が挙がるのも無理はないと思います。
 そういう時代にきている。
 ここまでは私も認識をともにします。
 その後の「解」はさまざまに分かれると思いますが。
辻井:
 さて、それをどうしたらいいですか、っていうことなんでしょうね。






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