2009年7月10日金曜日
:終章 砂時計の記録
● 1994/05[1981/07]
『
北勲が各地の気象台や測候所の勤務を経て広島地方気象台に戻ったのは、昭和42年6月であった。
「
あの年のことは、気象台にとっても、広島にとっても記録に残しておく」必要がある。
自分が退職してしまえば、当時を知っている者はいなくなるし、あと十年も経てば資料は何もかも失くなってしまうだろう。
広島に戻って来たのは何かのめぐり合わせかも知れない。
この機会に当時のことを記録にまとめて残しておくのだ
」
原爆を受けた広島市の朝の図書館には終戦当時の新聞資料などが著しく欠けていたため、北は呉市の図書館まで出かけた。
呉市の図書館に保存されている終戦当時の新聞記事を読むと、当時の社会情勢が髣髴として想いだされ、北は飽くことを知らなかった。
新聞をめくっていると思わずいろいろな記事に目が移った。
昭和20年8月末の紙面に、「死の測候所からの奇跡の吉報」の」見出しで出ている次のような記事は感動的であった。
「
また台風がやってくる。
こんどの台風は25日朝、南大東島付近に現れた740ミリの中型で北東に進んでいふ。-----
資料蒐集に躍起になっている気象台に24日夜、突如奇跡の吉報が舞い込んだ。
沖大東島測候所から実に2箇月ぶりに実況報告があったのだ。
その電報によって気象台では26日に来襲する台風の存在を確信することができたのであった。
久しく音信不通となっていた沖大東島からどうしていまごろひょっこり電報がきたのか?。
同測候所には所長以下十数名の所員が戦時気象に活躍していたのだが、何分にも沖縄と目と鼻の先の近距離にあるので、連日連夜の空襲と艦砲射撃に見舞われ無電塔は破壊されるし、建物は吹っ飛ぶ、もちろん燃料は尽きるし、食料もなくなった。
そして所員も戦死したり、病死したりして、残りの所員は立った数名になってしまったという。
同等にはひとかけらの土とてないのにどうして食いつないでいたのか、日一日と餓え迫る穴居生活をどうしていままで頑張ってきたのか?
」
沖大東島測候所の場合は広島の気象台とはまた違った形で、測候所員たちが生命の危険にさらされ、多数の戦死者を出している。
にもかかわわず台風接近の観測データを打電して来るだけの業務を続けていたのだ。
北ははじめて知った。
------
沖大東島測候所の場合といい、呉鎮守府測候所の場合といい、生活も生命も危険にさらされた中で測候所員に観測を続けさせたものはなんだったのか。
広島の気象台が’置かれた状況も同じようなものであった。
このほかにもまだ危難に耐え抜いた気象台や測候所があったかもしれない。
北は、あの頃の気象台を振り返って考えたとき、食料もろくになく、病人が続出し、ある者は肉親を原爆で失いつつもなを必死になって気象台にしがみついて生きてきた台員たちの姿が浮かんできた。
自分もそうだったが、原爆の後も気象台に踏みとどまった台員たちは、そうするよりほかに生活の糧を得る道がなかったのだ。
それは惰性で生き、惰性で仕事をしていたという面があったことも否定できない。
「戦争に勝つため」 という国家目的が敗戦によって崩壊したとき、あまりの衝撃に人々は精神的支柱を失い、生きる目的を失った。
「何のために何を為すべきか」が曖昧なまま、さりとてほかにすることがないため、ただ昨日までやってきたことを今日もやるという’虚脱の毎日でもあったのだ。
だが、気象台や測候所の定時の観測を欠測することなく、科学的にみても決してはずかしくない記録を残したということは、単なる惰性とか、ただ食うためという理由だけで為しえたであろうか。
自問自答する中で、北は一時代の気象台員や測候所員を支えた観測精神について思い浮かべた。
そして、そうした気象台員や測候所員を率いて巨峰のようにそびえたっていた岡田竹松や藤原咲平について思った。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_