2009年7月10日金曜日

:証言の解析作業と調査報告


● 1994/05[1981/07]



 宇田、菅原、北、山根、西田、中根の6人が収集した聞き書きは実に百数十件に達していた。
 各人のノートに記された聞き書きは、一つ一つがあの日何が起こったかを生き生きと証言していた。
 
 宇田の解析と報告文の作成を手伝うことは、台員たちにとって大きな勉強となった。
 とりわけ原爆の日に江波山の上から炎上する市街地を終日眺めていた北や山根にとって、百数十人の証言の解析作業は、あの不気味に貼ったツンした巨大な積乱雲の下で何が起こっていたかを克明に教えてくれるものであった。
 「できるだけ多くの体験者に会って聞きとりをして、原爆当日の地域別の状況を再現してみる以外に、研究のてがかりはない」という宇田の方針が、これほどまでに威力に充ちたデータを生み出そうとは、はじめのうちは考えても見なかった。
 「聞き書き」という一見原始的な調査方法でも、その狙いと手法がしっかりしていれば、科学的調査の方法として十分に有効性を持ち得るのだということを、みなはじめて知ったのだった。

 主要テーマの解析作業が峠を越したとき、宇田は、

 このような解析の結果だけでなく、聞きとった証言自体も後世に残すべき記録だと思う。
 だから報告書には、できるだけ多くの証言を付録資料として載せるつもりだ。
 もちろん百数十人もの聞き書きの前文を載せることは、報告書のスペースの関係で無理だから、原爆災害の科学的研究に必要と思われる部分に重点を置いた聞き書きの抄録にしようと思うのだが

と言った。
 枕崎台風の報告書をまとめたときと同じ考えであった。
 しかし、今回の場合は、枕崎台風の調査のときより、聞き書きの数がはるかに多く、証言内容も多岐に渡っていた。
 宇田の考えを、台員たちは全面的に支持した。
 廃墟の町を歩き回り、あるいは不便な山奥まで出かけて行って調べた聞き書きが、学術研究会議の権威ある学術報告書に掲載されるとなれば、それだけで報われるような気がしたのだ。

 こうして、広島管区気象台による原爆調査報告には、「体験談聴取録(抄)」として116人にのぼる体験談の要旨が掲載されることになったのである。
 それは、決して人間ドラマを記した記録ではないが、被爆直後に収集された唯一の体系的な証言として貴重なものであり、いわゆる原爆体験を記録する積極的な運動が戦後十数年も経ってから始められたことと照らし合わせると、被爆直後の困難な時期にこつこつと証言収集に歩き回った気象台の台員たちの発想と隠れた努力の意義は高い。

 「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」は、控えを気象台に残して、中央気象台に送られた。
 ところが、中央からの連絡によると、GHQが日本人による原爆研究の一般への発表は許可しない、という方針を明らかにしため、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会は、全体の報告書をまとめて刊行することができるかどうかわからない情勢になったという。

 学術研究会議の組織を引き継いだ日本学術会議が原子爆弾災害調査報告書刊行委員会を設けて、「原子爆弾災害調査報告書」の全文を刊行したのは、日本が独立した後、昭和28年3月であった。
 宇田、菅原、北らにとっては、実に8年目にしてようやく活字となった広島管区気象台の報告書を、ばらばらになった各人の勤務地で、手にとることができたのであった。






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