2009年1月29日木曜日

:酒に酔い、愛に惑う遊牧の末裔たち


● 2003/12



 彼は深呼吸しながら、公園のベンチに腰を下ろすと、一気にこういった。
 「僕、日本で半年間、拘置所に入っていたんです。
 罪名は過失傷害罪」
 「えっ!」
 私は一瞬、耳を疑った。
 頭がクラクラした。
 中国からの国際列車で出会い、人生や青春についていろいろ話をした。
 酒まで飲んで盛り上がり、ダンスまで一緒に踊った。
 いつも紳士的で、ふりむけばニコニコ笑っていた。
 そんな彼が拘置所にいたなんて?
 彼は俯いたまま淡々と話続けた。

 「人生の歯車はちょっとしたことで大きく狂います。
 留学当初、僕の人生は絶好調でした。
 猛勉強して、半年間で日本語検定試験一級に合格し、奨学金試験にもパスしました。
 本来なら今頃、月17万円もらって日本の大学院に通っていたはずです。
 あのいまいましい事件さえなければ‥‥」
 彼はもう一度、大きなタメ息をついた。

 「あれは大学院に合格した日の夜でした。
 留学生仲間のイタリアの女の子とウイグルの男3人が、合格祝いに僕の部屋に来て、酒盛りを始めました。
   <略>
 救急車のサイレンが鳴り、奴が病院に運びこまれ、僕は警察の取り調べ室にいました」

 「それで?」
 「たいして親しくなかった人が親身になってくれたり、多くの人に助けられました。
 大学内で僕の正当防衛を主張する署名運動をおこし、数千人の署名を集めてくれたのも、そんな友人たちです。
 そして裁判の傍聴席にきてくれたのは、日本の友人ばかりで、こまめに面会、差し入れにきてくれたのも日本人でした。
 だから列車の中で、あなたのことを聞いたとき、何かお役に立ちたいと思って、あなたの車両まで行ったのです」

 「もう一度、日本に留学しようと考えていますか?」
 「いえ、僕はカザフスタンで生きてゆこうと決めました。
 拘置所から出た時、友人の父親が、奨学金なしでも夜間大学院に通えるよう、日本の企業への就職を用意してくれました。
 でも、僕はカザフスタンに帰る必要性みたいなものを強く感じていました。
 いくら日本人に親切にされても、この事件は思い出すだけで胃が痛くなる嫌な思い出。
 忘れるためにも日本を離れるのが一番だと思ったのです」

 「なぜ、両親のいる中国ではなく、カザフスタンだったのですか?」 
 「祖国再建といえばキザに聞こえるでしょうが、でもそうなのです。
 日本は素晴らしい国です。
 物が溢れ、インフラがすべて整備されている。
 アメリカに原爆を落とされた国が、見事に再生しているのを現実に見て、僕は感動しましたし、こうおもいました。

 ”カザフだって、できないはずがない!” 」


 つらい言葉。
 日本人はもう昔に忘れてしまった。
 でも、本当に忘れてしまったのであろうか。
 わからない。





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