2009年1月26日月曜日

蟹の縦ばい:吉村昭


● 1997/05


 子供が父親の死を予感しているように、妻も夫の死を予感している。
 統計上、女の寿命が長いから当然のことだが、常に夫の死後のことについて考えている。

 夫の死後、彼女は思いがけぬ自由が自分にあたえられたことに気づく。
 やがて、旅行に出かけるようにもなる。
 一ケ月近くも家をあけたりする。
 民謡の踊りを習い、ヘルスセンターで温泉に入り、舞台で花笠音頭を踊ったりする。
 すべてに気がねすることがないのである。

 夫がいないほうがむしろ経済的には楽だと思うようになる。
 「夫は金を食う動物」であったことに気づくのだ。

 男は老いると気が弱くなる。
 眼におびえに似た光が宿り、声も張りを失う。
 歩く姿もしょぼくれてくる。
 頭を垂れ、疲れたように歩く。

 女はえたいの知れぬ逞しさを身につけてゆく。
 表皮は年ごとに厚くなってゆく「怪獣のように」である。
 まず声が野太くなり、驚くほど大きくなる。
 近くに人がいても、気にかけることをせずに大声で話し合う。
 笑い声も豪傑笑いに似るようになる。
 咽喉の奥までみえるほど口を大きくあけて笑い、眼には世俗体験をしっかり見につけたしたたかな自信にみちた光がうかんでいる。
 足どりも大地をしっかり踏みつけたゆるぎないものになり、一時間以上もたの女性と歩道で立ち話を続けても疲れるようなことはない。
 往き来する車の排気ガスに頭痛をおぼえることもない。

 なぜ、女はこのような逞しさを身につけるのか。

 それは食物に重要な関連があるためだと思う。
 妻は食物を作って夫に与える。
 夫も人間であるかぎり食物を口にしなければ生きてゆけない。

 食べさせる側と食べさせてもらう側の、立場の優劣はあきらかである。
 食べさせてもらう側、つまり夫は長いあいだ食べさせてもらっている間に、自然に食べさせてくれる妻に劣等感に似た感情をいだくようになる。
 「夫は犬に近い存在」だと思う。

 夫は妻にエサを与えてもらう。

 「うちの女房の料理でないと口に合わない」
 などと言って女房自慢する男は、妻の与えるエサにならされているのである。
 他人の差し出す餌には顔をそむけ、飼い主の与えるエサしか口にしない犬と同様である。
 「家庭料理が一番だ」と夫の言う妻が料理上手とはかぎらない。
 むしろ逆の場合さえある。
 つまるところ、その夫は妻のあたえてくれる食物の味に舌がならされてしまっただけにすぎない。

 犬は飼い主に弱々しい眼をむけ、おもねるような仕種をする。
 それは飼い主からエサを食べさせてもらっているからである。
 夫は、長いあいだ食べさせてもらっているうちに、潜在意識ではあるが、妻に対して卑屈感をいだくようになる。
 妻は、犬にエサをあたえる飼い主に似た優越感を身につけるようになる。 

 夫が死亡すれば、やがて日も経て悲しみもうすらぎ、「開放感をいだいて明るい表情」になる。


 もう、「夫にエサをやる必要はない」のだ!




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