2009年8月21日金曜日

: 訳者あとがき

● 2005/04



 序章で意識の問題の歴史を概観し-----

 第一部では本書の根幹を成す考えを次々に紹介する。
 意識とは「
何でないか」という消去法で外堀を埋め、意識を持たぬ人々の社会の存在を示唆する。
 一転して、「比喩」という特性をを軸に、意識が言語に基づいており、言語の発生のはるか後、今からわずか3千年ほど前に誕生したという仮説にいたる。
 その視点からホメロスの『イーリアス』を分析し、そこに神々の声に支配された、現代人のものとは完全に異なる精神構造を見出す。
 命令を下す「神々」と、それに従う「人間」に二分された心を<
二分心>と名づけ、意思決定のストレスが神々の声(幻聴)を誘発するという生理的要因を示す。
 この幻聴は命令の形をとり、行動と不可分で、「聞くことが従うこと」だったのだ。

 意識の考古学とでも呼べる第二部では、<二分心>の存在と衰退、意識の台頭を示唆する歴史的証拠を検証する。
 文字の発達や、戦争と大災害と民族移動、もともと内在する脆弱性などにより、<二分心>が衰退し、神々が沈黙して幻聴が消え去る過程、それを埋め合わせる形で祈りや占いが現れ、意識や道徳が発達する過程をたどっていく。

 第三部では、「<二分心>の時代から現代に通じる幾つかの道筋」を検討する。

 「後記」では、第一部と第二部で述べた主要な仮設の補足説明を行うとともに、意識の登場のおかげで「認知力が爆発的に向上」し、人間が「自己」を築き上げるようになり、、情動から感情が生まれたことを示す。


 わずか数千年前まで、人間は意識を持たず、社会統制のために<二分心>という精神構造に頼って、大脳右半球に由来する神々の声の命令に従っていたが、文字と比喩の発達とともにその構造が衰え、ようやく意識が誕生したという仮説はにわかには信じがたい。
 しかし、著者の挙げる多様で圧倒的な数の事例を見ていくうちに、この仮説は、揺るがしがたい事実のように思えてくる。
 この仮説が正しければ、納得できる事柄がじつに多いのだ。
 意識は経験の複写ではなく、概念や学習、思考、理性すら不要で、その邪魔にさえなること(ものごとは意識するとうまくいかない、問題の答えにどうやって行き着いたのか説明できない、という日常的な経験は、誰にもあるだろう)。
 「意識は言語の比喩を基盤にしている」こと、------

 序文にもあるとおり、『意識の帰結』という仮題まで与えて構想していた、本書の続編を世に出さぬまま、1997年に著者は亡くなった。
 
 <二分心>という用語は、原語では「bicametal mind」で、「bi」は「二」、「camera」は部屋、「l」は形容詞語尾、あわせて「二室の」「二院制の」、「mind」は「心」だから、直訳すれば「二室の心」「二院制の心」となる。このままでは日本語としてしっくりこないので、仮に<二分心>と訳してみた。

 2005年2月





注).
 <二分心>という訳語はちょっと分かりにくい。
 二つに分裂した心、といった感じを受けてしまう。
 表現がきつすぎるのかもしれない。
 イメージとしては「重層心」とか「二房心」とかいったところだろうか。




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