2009年8月2日日曜日

: 第1部 人間の心


● 2005/04




 第1章:意識についての意識
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 ほんとうは意識に在りかなどない。
 ただ私たちが、勝手にあると想像しているだけなのだ。

 意識は通常考えられているようなものではない。
 意識は「反応性」と混同されてはならない。
 意識は多くの知覚現象に関わっていない。
 意識は技能の遂行に関与せず、その実行を妨げることも多い。
 意識は話すこと、書くこと、読むことに必ずしも関与する必要はない。
 経験をコピーしてもいない。
 意識は信号学習に無関係であり、技能や解決法の学習にも必ずしも関与する必要はない。
 意識は判断を下したり、単純な思考をしたりするのにも必要ない。
 
 意識の在りかは、想像上のものでしかないのだ。
 となると、すぐに沸いてくる疑問は、そもそも「意識は存在するのだろうか」というものだ。
 この問題は次章に譲るとしよう。
 ここでは、私たちの活動の多くに、「意識はたいした影響を持たない」と結論しておけば事足りる。
 もし、この推論が正しければ、会話や判断、推理、問題解決にとどまらず、私たちのとる行動のほとんどを、まったく意識を持たぬ状態でこなす人々がかって存在しえた可能性は十分ある。
 この見解は、重大であると同時に、いささか衝撃的だ。
 が、現時点ではそう結論せざるをえない。

 「意識のない文明」がありうると信じていただけなければ、今後の論考は説得力のない、道理に反したものになってしまう。


 第2章:意識
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 本章は難解だった。
 意識が比喩から生まれた世界のモデルであるという考えから、実に明白な推論が幾つか得られる。
 その推論は私たちの日常における意識ある経験によって検証できる。
 この2点をいくばくの信憑性をもって示せたのであれば幸いだ。
 これは意識の理解に通じる糸口、それも少々頼りない糸口であり、将来さらに発展させれればと私は願っている。
 そろそろ本書の主題である「意識の起源の探究」に戻ってもよいころあいだ。
 もし、意識が「言語に基づいて創造されたアナログ世界」であり、数学の世界が事物の数量の世界と対応するように、行動の世界と対応しているとしよう。
 すると「意識の起源」について何が言えるだろうか。
 もし、意識が言語に基づいているとすると、その起源はこれまで考えられてきたより、かなり現在に近いことになる。
 意識が言語の後に生まれたとは!
 このような立場が暗示するところは、きわめて重大だ。

第4章 <二分心>
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 前章で導きだされた途方もない仮説は、遠い昔、人間の心は、
1.命令を下す「神」と呼ばれる部分と、
2.それに従う「人間」と世ばれ部分に
二分されていた、というものだ。
 どちらの部分も意識されなかった。
 これはほとんど私たちの理解を超えている。
 この仮説を身近に経験するものに当てはめようと考えてみたいと思う。
 これが本章の狙いだ。

 主観的意識を持つ人間の意思を説明することは、今なを難解な問題であり、満足のいく解答は得られていない。
 <二分心>の人間の場合は、この声こそが意思だった。
 別の言い方をすれば、意思は神経系における命令という性質を持つ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、「聞くことが従うこと」だったのだ。

第5章 2つの部分から成る脳
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 <二分心>の人間の脳では何が起きているのだろうか。
 ほんの3000年前の現在とはまったく異なった種類の精神構造が存在していたというような、私たちの人類の歴史においてきわめて重要な類の事柄には、なんとしても生理学的な説明が必要だ。

 <二分心>時代には、ウエルニッケ野に相当する右(劣位)半球の領域には精密な<二分心>の機能があったが、発達の初期段階で<二分心>が生まれても、その発達が阻害されるような心理的な再組織化が1000年にわたって行われ、この領域は異なる機能を持つようになった、と考えても差し支えないと思う。
 また同様に、現在、意識が神経学的にどのようであろうと、その状態がいつの時代でも普遍であると考えるのは誤りだろう。
 脳の組織は絶対的なものでなく、発達のプログラムが異なれば組織構造も異なったものになりうることを示唆している。



[注:訳者あとがきより]
 原語は「bicameral mind」で、「bi」は「二」、「camera」は部屋、「l」は形容詞語尾、あわせて「二室の」「二院制の」、「mind」は「心」だから、直訳すると「二室の心」「二院制の心」となる。
 このままでは日本語としてしっくりこないので、仮に<二分心>と訳してみた。

[注]
 「camera」は一般には「カメラ」「写真」「撮影」といった使い方が多い。
 「mind」は「心」「精神」「理性」「理知」「意思」などの意味を持つ。
 とすると「複影心」あるいは「複像知」「複映知」といった風にも訳せる。
 日本語としてはしっくりしない。






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