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第2章 文字を持つ<二分心>の神政政治
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文字とは何か?
文字は「視覚的事象の図絵」から「音声的事象の符号」へと進化する。
後者でいう文字は、読者に「未知の情報」を伝えようとする。
前者に近いほど、もっぱら「記憶再生を助ける手段」という意味合いが増し、「既知の情報」を読者に喚起することになる。
これらを見る者たちに喚起されるはずの情報は永遠に失われる可能性があり、その結果、文字は永遠に解読されないこともありうる。
この両極にある文字の中間に位置し、半ば図絵で、半ば符号という2種類の文字を本章ではとりあげる。
1つは「神々の書」を意味するエジプトの「ヒエログリフ(象形文字)」と、これを簡略化した筆記体の「神官文字」、
もう1つは、それより広範に使われ、後に学者たちが楔の形に似た自体から「楔形文字」と名づけた文字だ。
楔形文字は、英語の26文字などとは違って、「600」を越える記号を使った、扱いにくく不明瞭な伝承形式だ。
その多くは表意文字で、同一記号が1つの音節、1つの意味、1つの名前を表すこともあれば、複数の意味を持つ単語になることもある。
それは文字の分類によって決まるのだが、分類はある特定の目印で不規則に示される。
文字がどの種類かは、文脈からしかわからない。
楔形文字の使用当時も、意味を確定するのは並大抵のことではなかった。
いわんや、4000年の隔たりのある今では、解読は興味深くはあるものの、とてつもない難題となっている。
ヒエログリフや神官文字についても一般に同じことがいえる。
楔形文字の文献の多くは受領書、物品目録、神々への賛辞なので、用語はたいてい具体的であるため、解読を誤る心配はほとんどない。
しかし、用語が抽象的になりがちなとき、とりわけ心理学的な解釈が可能なときなどは、訳文をわかりやすくしようと、善意の翻訳者が「現代的なカテゴリー」を押しつける例が見受けられる。
古代人を現代人のようにみせかけたり、あるいはせめて欽定英訳聖書のような文体で語らせようとしたりする。
解読者は、実際に読み取れる以上のものを読み込むことが多い。
人類の「考古心理学」の資料として、当てにするつもりならば、具体的な行動に基づいて正確に解釈し直す必要がある。
お断りしておくが、本章の与える印象は、同じ題材を扱った一般の書物と一致しない。
紀元前1792年、このように行政に文書を取りいれたことで、それまでにはほとんどみられぬ類の政府が誕生した。
指揮にあたったのは、管財人たる歴代の王のうちで最も偉大なバビロンの都市神マルドウクの従僕「ハムラビ」だ。
ハムラビは、識字能力があり、書記を必要としなかった最初の王とさえ考えられている。
ハムラビの最も有名な遺産は、いくらか拡大解釈され、またおそらく誤った呼称を付された「ハムラビ法典」だ。
これは墨色の玄武岩でできた、高さ2.25メートルほどの石柱で、ハムラビの治世の末期に、本人の彫像のそばに建てられた。
刻まれているのは、「282条」におよぶ穏やかな神の判決だ。
同法が、紀元前18世紀の人々が行っていたとする事柄を、計画・工夫し、歎いたり、喜んだりする主観的な意識を持たぬ人間が実行できるとはとても想像しがたい。
すべてがいかに原始的であり、私たちの用いる現代訳語がいかに五回を招きやすいかを思い起こす必要がある。
「金銭」あるいは「貸付」とまで誤訳されている原語「カスプ」は「銀」を意味するに過ぎない。
それが今日の感覚でいう金銭を指していたとは思えない。
この時代には硬貨は1枚も見つかっていないのだ。
現代の金融用語を用いた訳などは不正確きわまりない。
楔形文字の史料翻訳の多くで、学者たちが現代的な志向のカテゴリーを無理に当てはめようとする例が後を絶たない。
古代文化をもっと親しみやすいものとして、現代の読者により興味深いものにしようとしてのことだろう。
ハムラビ法典に定められた法規は、当時はまだない警察によって強制的に施行される現代法の観点から考えるべきではない。
それはバビロンの慣習法を列挙したものの、マルドウク神の声明であり、その強制力は、この石碑に刻まれれているという信頼性だけで十分だったといえる。
ここでこれまでの要約をしてみよう。
前章と本章では、膨大な歳月にわたる過去の記録の考察を試みた。
これは以下のような考えが妥当であることを示すためだった。
すなわち、古代人やその文明の背景には現代人とまったくことなる精神構造があり、古代人は私たちのような意識を持たず、自らの行動に責任があったわけではない。
それゆえ、何千年という長大な期間になされたいかなる行動も、称賛や非難に値しないこと、その代わりに、個々の人間の神経系には神のような部分があり、彼らは奴隷のようにその命令に言いなりだったこと、その命令は、1つあるいは複数の声のような形をとり、その声はまさに今日で言う意志にあたり、命令の内容に力を与え、また念入りに設定された序列によって他者の幻の声と関係づけられていたことだ。
神々は誰かの想像から生まれた虚構などでは断じてなく、それは人間の意志作用だった。
神々は人の神経系、おそらく右大脳半球を占め、そこに記録された訓戒的・教訓的な経験をはっきりと言葉に変え、本人は「何を為すべきか」を「告げた」のだ。
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【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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