● 2005/04
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この論文が本の体裁をとって初めて出版されてから10年以上が過ぎた。
そこで、出版社の勧めに従い、後記を付することにした。
本書に対する全般的な反応と、万一本書を書き直すとすれば加えるであろう変更について論じてみたい。
本書の第一部と第二部では、主要な仮説を4つ提示した。
この機会を利用して、それぞれに少し言葉を加えておこう。
①.意識は言語に基づいている
このような見解はもちろん、世間一般の通念と言語の双方に根ざした、私の思うに、表面的な通常の意識観に反する。
意識と認知は別物で、この2つははっきりと区別されるべきだ。
私がその重大さを十分に強調しきれなかった誤りのうち、最も広くみられるのは、意識と知覚の混同だ。
知覚とは刺激を感じとり、適切に反応することだ。
そしてこれは、車の運転を例に挙げて説明を試みたように、無意識のレベルで起こりうる。
意識は言語だけから成るわけではないが、言語によって生成され、言語によってアクセスされる。
やがて、意識は言語に分かちがたく組み込まれ、子どもにもたやすく学べるようになった。
原則として、意識の作用には、必ずそれに先行する行動がある。
心理的な事象を記述するのに視覚的な言葉が用いられると、それが絶えず繰り返されるうちに、連想からくる空間的性質は、私たちの意識の機能的な空間、すなわち<心の空間>となる。
私はこの<心の空間>を、意識の第1の"特性"だと考えている。
そしてこの空間こそ、今の瞬間にも、みなさんが真っ先に「内観」し、「見て」いる空間にほかならない。
しかし、「見て」いるのは誰なのだろうか。
いったい誰が「内観」しているのだろうか。
ここで登場するのが「類推:アナロジー」だ。
これは、類似点が物や行動ではなく、その関係であるという点で、「比喩」とは異なる。
「私」から類推されるアナログの<私>は、<心の空間>の中で、心の目で「見る」ために自然と発展してきた。
アナログの<私>は、意識にとって2番目に重要な"特性"だ。
これは自己と混同されてはならない。
「自己」はもっと後になって、意識の対象として生じるものだ。
意識の働きはどれも、こうした行動の比喩や類推に基づいており、非常に安定した基盤を入念に構築している。
そこで私たちは、実際の行動についての類推によるシュミレーションを<物語化>する。
意識はたえず、物事を物語の中にはめ込み、あらゆる出来事に前後の関係を付加している。
この結果、「空間化された時間」という意識的な時間の概念が生じ、私たちはその中に様々な事象や自分たちの人生さえも位置づける。
空間以外のものになぞらえて、「時間を意識すること」は不可能だ。
こうして考えてくると、私がすでに挙げた"特性"だけでは不十分だと思われてくる。
少なくともあと2ツの特性が追加されるべきだ。
一つは感覚的注意のアナログである<集中>
もう一つは、不愉快な考えを意識から締め出す作用である<抑制>だ。
②.<二分心>
2つ目の重要な仮説は、意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があったというものだ。
そもそも、なぜ人間には幻聴などというものがあるのだろうか。
③.時期
3つめの一般的仮説は、意識は<二分心>の崩壊後に習得されたというものだ。
神を失ったために生じた混乱の中で、いかに行動すべきかを知りえない苦悩から新たな社会状況が生まれ、古いものにとって代わるという新たな精神構造が生み出されたと考えられる。
④.2つの部分から成る脳
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認知力の爆発的向上
意識を獲得した人間は、想像上の未来を「のぞき」込み、まるですでに現実であるかのように、将来抱くかもしれない恐怖や喜び、希望、野心を見出すことができるようになった。
過去は空間の<比喩語>から姿を現し、私たち人間はその長い影を通じて、追憶や回想と称される新しい軌跡のような家庭を辿れるのだ。
自己
私たち人間は自分自身や他人の中に、たえず自己というものを築き上げ、創りだしている。
自我という観念には、何ができるか、あるいはできないか、何をすべきか、あるいはすべきでないかを判断する手がかりになるという利点がある。
<二分心>の人間には安定したアイデンテイテイ、すなわち名前があり、彼ら自身や周囲の人間はそこに形容辞をつけることができた。
しかし、そうした言語によるアイデンテイテイは、意識的に築き上げられた自己に比べれば、はるかに浮薄な行動様式にすぎない。
この自己は一定せず、脆く、守勢のものながら、様々な洗濯を伴う意識的な人生というふらつきにも導いてくれる。
情動から感情へ
出来事や経験を位置づけたり、思い返したり、予想したりできいる、空間化された新たな時間は意識上に自己を築き上げただけでなく、人間の感情にも劇的な変化をもたらした。
まず、「情動(affect)」という単語からしてそう。
私は過去や未来の情動に対する意識を、「感情(emotion)」と呼びたいと思う。
感情とは情動に対する意識で、過去も未来も含めた一生という枠で捉えられるアイデンテイテイの内部にある。
そして注目すべきは、この感情を抑える生物学的な進化に基づくメカニズムがまったくないという点だ。
恐怖から不安へ
現代人に備わった過去の恐怖を思い出したり、これから起きるかもしれない恐怖を想像したりすると、そこには不安という感情が入り混じる。
「不安」はさしずめ「恐怖の知識」ということになろう。
恥から罪悪感へ
第2の生物学的情動は「恥」だ。
恥は社会の中で喚起される情動なので、動物についても人間についても、実験により検証されることはほとんどなかった。
恥は、ヒエラルキーのある集団から拒絶されたときにみせる服従反応でもある。
実際、大人になるまでに、私たちは過去の恥によってきっちりと枠にはめられ、社会的に許容される行動の狭い帯域内に閉じ込められてしまうので、恥をかくことはほとんどなくなる。
紀元前1000年以前の人々は、決して罪悪感を抱かなかった。
当時、「恥」は集団をまとめあげる手段だった。
恥とは対照的に、罪悪感が当時生まれた感情だった。
罪悪感を拭い去る生物的なメカニズムもまた存在しない。
罪悪感をいかに拭い去るのかという問題から、やがて経験的に習得された「社会儀式」が発展してきた。
交尾から「セックス」へ
第3の事例は、「交尾」の情動だ。
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プリンストン大学にて、 1990年
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