2009年8月20日木曜日

: 第3部 <二分心>の名残り "科学という占い"

● 2005/04



 催眠
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 心理学が抱える諸問題で中でも、「催眠」はもてあまし者だ。
 意識とその起源についてまじめな仮説を立てようと思うなら、この異常な形の行動規制が突きつける難題から目をそむけるわけにはいかない。
 
"催眠"が過剰なまでに人を従わせる力を持っているのは、<二分心>を可能にする一般的パラダイムを用いて、意識をもってしては成しえない絶対的な制御を行動に加えることができるからだ。

 もし現代人の精神構造が通説とおり遺伝子で決められた不変の特性であって、哺乳類の進化過程で、あるいはそれ以前の段階で生物に備わったものだというなら、催眠一つでこれほどまでに変えられてしまうのは「なぜなのか」。
 進化によって発達したとの見方を捨て、意識は文化の要請に従って学習された能力なのだと考え、その根底には古い時代の有無を言わせぬ行動制御の土台が残っていることを想定して初めて、催眠による著しい心の変容にも納得がいくように思える。

 異常なまでの物事を容易にし、普通なら非常に苦労しなければならぬことを、私たちに可能にさせる催眠の力とは、いったいなんなのか。
 いや、そもそもそうした行為をしているのは「私たち」なのかだろうか。
 催眠時には、まるで別の誰かが私たちの体を使って行動しているように思える。
 これはどうしたことか。
 そして、なぜ催眠状態では物事がたやすく行えるのか。
 催眠時にはアイデンテイテイも行動も変えられるのに、なぜ正気のときに自分で自分を変えられないのか。
 施術者が被験者を意のままに操るように、自分のどんな行動も自分で決めたとおりに行えてよいはずだ。


 
科学という占い
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 科学が必死になって自然と格闘しながら、これほど真剣に求める「確実性」 なる恵みは、いったいどんな性質のものなのか。
 なぜ私たちは、森羅万象に正体を明らかにするよう求めたりするのか。
 それにこだわる理由は何なのだろう。
 人を科学に向かわせる衝動の一部は、不可解なものをとらえ、目新しいものを見たいという、たんなる「
好奇心」だ。
 私たちはみな、未知の世界を目の前にした子どもたちなのだ。
 「科学という風習」の第二の原動力で、しかも好奇心以上にこの風習の維持に役立っているのが「
テクノロジー」だ。
 テクノロジーそのものが歴史の中で抑制の効かぬほど勢いを増し、その科学的基盤を進歩させている。
 そしてそれはひょっとすると、狩猟者としての問題を追い詰めようとようとする「性向決定構造」が、人を真実に向かわせるもう一つの動機なのかもしれない。
 科学については、様々な源の向こう側に、もっと普遍的なもの、この分化・専門化の時代にはあまり語られないものが潜んでいる。
 それは、「存在の全体性」、物事をはっきり定める本質的な現実、「宇宙全体とその中の人間の位置」といったものの理解だ。
 それは、最終的な答えを求めて星々の間を暗中模索することであり、無窮の普遍的事実を求めて無限小の世界をさまようことであり、道の世界の深部へ深部へと行脚することだ。
 その目的の起点は歴史の靄の彼方にあって、<二分心>の崩壊で失われた「
命令の声」を探すことである。

 真の問題は、人は失った神の権威を、神の声を聞いた古代の預言者たちからローマ教皇が継承したものを通して見出すか、それとも、今現在の客観的世界において、自分自身が経験している天空を聖職者の仲介なしで探すことを通して見出すか、どちらにすべきかということなのである。
 周知のとおり、後者はプロテスタント主義となり、その合理的側面が「科学革命」と呼ばれるものになった。
 科学革命を正確に理解するつもりなら、その最強の起動力とは、隠された神性の不断の探求だったことを常に頭に入れておくべきだ。
 その意味で。科学革命は<二分心>の崩壊に由来している。

 2000年紀には、そうした聖典は権威を失った。
 科学革命によって、人々は昔からの言い伝えに背を向け、失った神の権威を自然の中に見出した。
 この4千年の間に私たちは、ゆっくり、しかも容赦なく、人類は神を離れ、俗化してきたのである。
 ヘルマン・フォン・ヘルムフォルツは「エネルギー保存の法則」を発表した。
 彼はこの原理を数学的に扱い、エネルギー変換の「閉じた世界」には外からの力はまったく働いていないという点を冷静に強調した。
 天に神々の居場所はなく、物質でできたこの閉じた宇宙には、神の影響力が忍び込んでくるような亀裂はいっさいない、というわけだ。
 「博物学」の研究は一般に、自然の中に慈悲深い創造主の完璧な御業を見つけるという、心和む楽しい学問だった。
 そういう穏やかな動機や慰めにとって、まさにそういう研究をしていたアマチアの」博物学者、チャールズ・ダーウインは、あらゆる自然を創造したのは「神の知力」ではなく「進化」であるという説を発表したほど壊滅的なものはなかった。
 新たに強調された説は、驚くほど強烈で容赦なかった。
 打算のない「
冷酷な偶然」によって、一部の生物が他の生物より、よりうまくこの生存競争に勝ち残れるようになり、その結果、新しい世代が次々にたくさん繁殖できるようになった。
 そうやって盲目的に、そして無慈悲とさえ言えるほどに、人類は物質から、「単なる物質から」創り出された、というのだ。
 
 自然淘汰による進化論は、<二分心>、時代の深遠な無意識にまでまっすぐさかのぼる伝統---人間は神エロヒムの意思によって創られたという、人間を気高きものにしていた伝統---のいっさいの終焉を告げる、くぐもった鐘の音だった。
 この理論の一言で、外からの権威などいらないのだと言い放った。
 見よ!
 そこには何にもない。
 私たちがやらねばならぬことは、私たち自身から出てこなくてはならないのだ。
 ゆっくりかもしれないし、たちまちかもしれない、ひょっとすると、私たちの精神構造がさらに変化する可能性さえある。

 近代科学そのものは、全体をおおまかに見れば、同じようなエセ宗教的な様相を呈している。
 そういう言わば「科学主義」は、科学的観念の群れで、その観念が集まると、思いがけず宗教的な教養になる。
 その宗教教義とは、すなわち現代の科学と宗教の分裂によって残された、痛切な空白をうずめる「科学神話」だ。
 科学主義は宗教に取って代わろうとしているが、当の宗教が引き起こしたことと同じ反応を誘うという点で、古典的な科学やその一般理論とは異なる。
 科学主義の特徴として際立つものは、宗教と共通している点が多い。
 たとえば、すばらしく合理的にすべてを説明する。
 信奉者たちは心から帰依することを求められるが、その代わりに、かって宗教がもっと普遍的に人間に与えていたものを受け取る。
 それは、世界観であり、価値のヒエラルキーであり、自分が何をなし、何を考えるべきかをしることのできる予言の場であり、つまり「人間についての完全な説明」だ。
 唯物論は、そのような科学主義の先がけの一つだった。
 医学の中で最も科学主義が顕著なのは「精神分析」であろう。
 私自身の立場でもっとも近い例として、「行動主義」をつけ加えよう。

 迷信というのは、結局、知りたいという穂っ旧を満たすために、むやみに大きくなった「比喩」に過ぎないのだ。

 遠大の様々な動きは、人類の諸文明という長大な歴史絵巻の中でみると、古代の人間性の構造が失われたことに関係していると考えられる。
 それは、実在しない詩神ムーサたちのもとに戻ろうとする詩人のように、もはや存在しないものへ回帰しようとする試みであり、私たちが生を受けた、この変わり目の数千年間の特徴なのだ。







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