2009年8月30日日曜日
2009年8月21日金曜日
: 訳者あとがき
● 2005/04
『
序章で意識の問題の歴史を概観し-----
第一部では本書の根幹を成す考えを次々に紹介する。
意識とは「何でないか」という消去法で外堀を埋め、意識を持たぬ人々の社会の存在を示唆する。
一転して、「比喩」という特性をを軸に、意識が言語に基づいており、言語の発生のはるか後、今からわずか3千年ほど前に誕生したという仮説にいたる。
その視点からホメロスの『イーリアス』を分析し、そこに神々の声に支配された、現代人のものとは完全に異なる精神構造を見出す。
命令を下す「神々」と、それに従う「人間」に二分された心を<二分心>と名づけ、意思決定のストレスが神々の声(幻聴)を誘発するという生理的要因を示す。
この幻聴は命令の形をとり、行動と不可分で、「聞くことが従うこと」だったのだ。
意識の考古学とでも呼べる第二部では、<二分心>の存在と衰退、意識の台頭を示唆する歴史的証拠を検証する。
文字の発達や、戦争と大災害と民族移動、もともと内在する脆弱性などにより、<二分心>が衰退し、神々が沈黙して幻聴が消え去る過程、それを埋め合わせる形で祈りや占いが現れ、意識や道徳が発達する過程をたどっていく。
第三部では、「<二分心>の時代から現代に通じる幾つかの道筋」を検討する。
「後記」では、第一部と第二部で述べた主要な仮設の補足説明を行うとともに、意識の登場のおかげで「認知力が爆発的に向上」し、人間が「自己」を築き上げるようになり、、情動から感情が生まれたことを示す。
わずか数千年前まで、人間は意識を持たず、社会統制のために<二分心>という精神構造に頼って、大脳右半球に由来する神々の声の命令に従っていたが、文字と比喩の発達とともにその構造が衰え、ようやく意識が誕生したという仮説はにわかには信じがたい。
しかし、著者の挙げる多様で圧倒的な数の事例を見ていくうちに、この仮説は、揺るがしがたい事実のように思えてくる。
この仮説が正しければ、納得できる事柄がじつに多いのだ。
意識は経験の複写ではなく、概念や学習、思考、理性すら不要で、その邪魔にさえなること(ものごとは意識するとうまくいかない、問題の答えにどうやって行き着いたのか説明できない、という日常的な経験は、誰にもあるだろう)。
「意識は言語の比喩を基盤にしている」こと、------
序文にもあるとおり、『意識の帰結』という仮題まで与えて構想していた、本書の続編を世に出さぬまま、1997年に著者は亡くなった。
<二分心>という用語は、原語では「bicametal mind」で、「bi」は「二」、「camera」は部屋、「l」は形容詞語尾、あわせて「二室の」「二院制の」、「mind」は「心」だから、直訳すれば「二室の心」「二院制の心」となる。このままでは日本語としてしっくりこないので、仮に<二分心>と訳してみた。
2005年2月
』
注).
<二分心>という訳語はちょっと分かりにくい。
二つに分裂した心、といった感じを受けてしまう。
表現がきつすぎるのかもしれない。
イメージとしては「重層心」とか「二房心」とかいったところだろうか。
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_
『
序章で意識の問題の歴史を概観し-----
第一部では本書の根幹を成す考えを次々に紹介する。
意識とは「何でないか」という消去法で外堀を埋め、意識を持たぬ人々の社会の存在を示唆する。
一転して、「比喩」という特性をを軸に、意識が言語に基づいており、言語の発生のはるか後、今からわずか3千年ほど前に誕生したという仮説にいたる。
その視点からホメロスの『イーリアス』を分析し、そこに神々の声に支配された、現代人のものとは完全に異なる精神構造を見出す。
命令を下す「神々」と、それに従う「人間」に二分された心を<二分心>と名づけ、意思決定のストレスが神々の声(幻聴)を誘発するという生理的要因を示す。
この幻聴は命令の形をとり、行動と不可分で、「聞くことが従うこと」だったのだ。
意識の考古学とでも呼べる第二部では、<二分心>の存在と衰退、意識の台頭を示唆する歴史的証拠を検証する。
文字の発達や、戦争と大災害と民族移動、もともと内在する脆弱性などにより、<二分心>が衰退し、神々が沈黙して幻聴が消え去る過程、それを埋め合わせる形で祈りや占いが現れ、意識や道徳が発達する過程をたどっていく。
第三部では、「<二分心>の時代から現代に通じる幾つかの道筋」を検討する。
「後記」では、第一部と第二部で述べた主要な仮設の補足説明を行うとともに、意識の登場のおかげで「認知力が爆発的に向上」し、人間が「自己」を築き上げるようになり、、情動から感情が生まれたことを示す。
わずか数千年前まで、人間は意識を持たず、社会統制のために<二分心>という精神構造に頼って、大脳右半球に由来する神々の声の命令に従っていたが、文字と比喩の発達とともにその構造が衰え、ようやく意識が誕生したという仮説はにわかには信じがたい。
しかし、著者の挙げる多様で圧倒的な数の事例を見ていくうちに、この仮説は、揺るがしがたい事実のように思えてくる。
この仮説が正しければ、納得できる事柄がじつに多いのだ。
意識は経験の複写ではなく、概念や学習、思考、理性すら不要で、その邪魔にさえなること(ものごとは意識するとうまくいかない、問題の答えにどうやって行き着いたのか説明できない、という日常的な経験は、誰にもあるだろう)。
「意識は言語の比喩を基盤にしている」こと、------
序文にもあるとおり、『意識の帰結』という仮題まで与えて構想していた、本書の続編を世に出さぬまま、1997年に著者は亡くなった。
<二分心>という用語は、原語では「bicametal mind」で、「bi」は「二」、「camera」は部屋、「l」は形容詞語尾、あわせて「二室の」「二院制の」、「mind」は「心」だから、直訳すれば「二室の心」「二院制の心」となる。このままでは日本語としてしっくりこないので、仮に<二分心>と訳してみた。
2005年2月
』
注).
<二分心>という訳語はちょっと分かりにくい。
二つに分裂した心、といった感じを受けてしまう。
表現がきつすぎるのかもしれない。
イメージとしては「重層心」とか「二房心」とかいったところだろうか。
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_
: 後記
● 2005/04
『
この論文が本の体裁をとって初めて出版されてから10年以上が過ぎた。
そこで、出版社の勧めに従い、後記を付することにした。
本書に対する全般的な反応と、万一本書を書き直すとすれば加えるであろう変更について論じてみたい。
本書の第一部と第二部では、主要な仮説を4つ提示した。
この機会を利用して、それぞれに少し言葉を加えておこう。
①.意識は言語に基づいている
このような見解はもちろん、世間一般の通念と言語の双方に根ざした、私の思うに、表面的な通常の意識観に反する。
意識と認知は別物で、この2つははっきりと区別されるべきだ。
私がその重大さを十分に強調しきれなかった誤りのうち、最も広くみられるのは、意識と知覚の混同だ。
知覚とは刺激を感じとり、適切に反応することだ。
そしてこれは、車の運転を例に挙げて説明を試みたように、無意識のレベルで起こりうる。
意識は言語だけから成るわけではないが、言語によって生成され、言語によってアクセスされる。
やがて、意識は言語に分かちがたく組み込まれ、子どもにもたやすく学べるようになった。
原則として、意識の作用には、必ずそれに先行する行動がある。
心理的な事象を記述するのに視覚的な言葉が用いられると、それが絶えず繰り返されるうちに、連想からくる空間的性質は、私たちの意識の機能的な空間、すなわち<心の空間>となる。
私はこの<心の空間>を、意識の第1の"特性"だと考えている。
そしてこの空間こそ、今の瞬間にも、みなさんが真っ先に「内観」し、「見て」いる空間にほかならない。
しかし、「見て」いるのは誰なのだろうか。
いったい誰が「内観」しているのだろうか。
ここで登場するのが「類推:アナロジー」だ。
これは、類似点が物や行動ではなく、その関係であるという点で、「比喩」とは異なる。
「私」から類推されるアナログの<私>は、<心の空間>の中で、心の目で「見る」ために自然と発展してきた。
アナログの<私>は、意識にとって2番目に重要な"特性"だ。
これは自己と混同されてはならない。
「自己」はもっと後になって、意識の対象として生じるものだ。
意識の働きはどれも、こうした行動の比喩や類推に基づいており、非常に安定した基盤を入念に構築している。
そこで私たちは、実際の行動についての類推によるシュミレーションを<物語化>する。
意識はたえず、物事を物語の中にはめ込み、あらゆる出来事に前後の関係を付加している。
この結果、「空間化された時間」という意識的な時間の概念が生じ、私たちはその中に様々な事象や自分たちの人生さえも位置づける。
空間以外のものになぞらえて、「時間を意識すること」は不可能だ。
こうして考えてくると、私がすでに挙げた"特性"だけでは不十分だと思われてくる。
少なくともあと2ツの特性が追加されるべきだ。
一つは感覚的注意のアナログである<集中>
もう一つは、不愉快な考えを意識から締め出す作用である<抑制>だ。
②.<二分心>
2つ目の重要な仮説は、意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があったというものだ。
そもそも、なぜ人間には幻聴などというものがあるのだろうか。
③.時期
3つめの一般的仮説は、意識は<二分心>の崩壊後に習得されたというものだ。
神を失ったために生じた混乱の中で、いかに行動すべきかを知りえない苦悩から新たな社会状況が生まれ、古いものにとって代わるという新たな精神構造が生み出されたと考えられる。
④.2つの部分から成る脳
----------
認知力の爆発的向上
意識を獲得した人間は、想像上の未来を「のぞき」込み、まるですでに現実であるかのように、将来抱くかもしれない恐怖や喜び、希望、野心を見出すことができるようになった。
過去は空間の<比喩語>から姿を現し、私たち人間はその長い影を通じて、追憶や回想と称される新しい軌跡のような家庭を辿れるのだ。
自己
私たち人間は自分自身や他人の中に、たえず自己というものを築き上げ、創りだしている。
自我という観念には、何ができるか、あるいはできないか、何をすべきか、あるいはすべきでないかを判断する手がかりになるという利点がある。
<二分心>の人間には安定したアイデンテイテイ、すなわち名前があり、彼ら自身や周囲の人間はそこに形容辞をつけることができた。
しかし、そうした言語によるアイデンテイテイは、意識的に築き上げられた自己に比べれば、はるかに浮薄な行動様式にすぎない。
この自己は一定せず、脆く、守勢のものながら、様々な洗濯を伴う意識的な人生というふらつきにも導いてくれる。
情動から感情へ
出来事や経験を位置づけたり、思い返したり、予想したりできいる、空間化された新たな時間は意識上に自己を築き上げただけでなく、人間の感情にも劇的な変化をもたらした。
まず、「情動(affect)」という単語からしてそう。
私は過去や未来の情動に対する意識を、「感情(emotion)」と呼びたいと思う。
感情とは情動に対する意識で、過去も未来も含めた一生という枠で捉えられるアイデンテイテイの内部にある。
そして注目すべきは、この感情を抑える生物学的な進化に基づくメカニズムがまったくないという点だ。
恐怖から不安へ
現代人に備わった過去の恐怖を思い出したり、これから起きるかもしれない恐怖を想像したりすると、そこには不安という感情が入り混じる。
「不安」はさしずめ「恐怖の知識」ということになろう。
恥から罪悪感へ
第2の生物学的情動は「恥」だ。
恥は社会の中で喚起される情動なので、動物についても人間についても、実験により検証されることはほとんどなかった。
恥は、ヒエラルキーのある集団から拒絶されたときにみせる服従反応でもある。
実際、大人になるまでに、私たちは過去の恥によってきっちりと枠にはめられ、社会的に許容される行動の狭い帯域内に閉じ込められてしまうので、恥をかくことはほとんどなくなる。
紀元前1000年以前の人々は、決して罪悪感を抱かなかった。
当時、「恥」は集団をまとめあげる手段だった。
恥とは対照的に、罪悪感が当時生まれた感情だった。
罪悪感を拭い去る生物的なメカニズムもまた存在しない。
罪悪感をいかに拭い去るのかという問題から、やがて経験的に習得された「社会儀式」が発展してきた。
交尾から「セックス」へ
第3の事例は、「交尾」の情動だ。
-------
プリンストン大学にて、 1990年
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_
『
この論文が本の体裁をとって初めて出版されてから10年以上が過ぎた。
そこで、出版社の勧めに従い、後記を付することにした。
本書に対する全般的な反応と、万一本書を書き直すとすれば加えるであろう変更について論じてみたい。
本書の第一部と第二部では、主要な仮説を4つ提示した。
この機会を利用して、それぞれに少し言葉を加えておこう。
①.意識は言語に基づいている
このような見解はもちろん、世間一般の通念と言語の双方に根ざした、私の思うに、表面的な通常の意識観に反する。
意識と認知は別物で、この2つははっきりと区別されるべきだ。
私がその重大さを十分に強調しきれなかった誤りのうち、最も広くみられるのは、意識と知覚の混同だ。
知覚とは刺激を感じとり、適切に反応することだ。
そしてこれは、車の運転を例に挙げて説明を試みたように、無意識のレベルで起こりうる。
意識は言語だけから成るわけではないが、言語によって生成され、言語によってアクセスされる。
やがて、意識は言語に分かちがたく組み込まれ、子どもにもたやすく学べるようになった。
原則として、意識の作用には、必ずそれに先行する行動がある。
心理的な事象を記述するのに視覚的な言葉が用いられると、それが絶えず繰り返されるうちに、連想からくる空間的性質は、私たちの意識の機能的な空間、すなわち<心の空間>となる。
私はこの<心の空間>を、意識の第1の"特性"だと考えている。
そしてこの空間こそ、今の瞬間にも、みなさんが真っ先に「内観」し、「見て」いる空間にほかならない。
しかし、「見て」いるのは誰なのだろうか。
いったい誰が「内観」しているのだろうか。
ここで登場するのが「類推:アナロジー」だ。
これは、類似点が物や行動ではなく、その関係であるという点で、「比喩」とは異なる。
「私」から類推されるアナログの<私>は、<心の空間>の中で、心の目で「見る」ために自然と発展してきた。
アナログの<私>は、意識にとって2番目に重要な"特性"だ。
これは自己と混同されてはならない。
「自己」はもっと後になって、意識の対象として生じるものだ。
意識の働きはどれも、こうした行動の比喩や類推に基づいており、非常に安定した基盤を入念に構築している。
そこで私たちは、実際の行動についての類推によるシュミレーションを<物語化>する。
意識はたえず、物事を物語の中にはめ込み、あらゆる出来事に前後の関係を付加している。
この結果、「空間化された時間」という意識的な時間の概念が生じ、私たちはその中に様々な事象や自分たちの人生さえも位置づける。
空間以外のものになぞらえて、「時間を意識すること」は不可能だ。
こうして考えてくると、私がすでに挙げた"特性"だけでは不十分だと思われてくる。
少なくともあと2ツの特性が追加されるべきだ。
一つは感覚的注意のアナログである<集中>
もう一つは、不愉快な考えを意識から締め出す作用である<抑制>だ。
②.<二分心>
2つ目の重要な仮説は、意識に先立って、幻聴に基づいたまったく別の精神構造があったというものだ。
そもそも、なぜ人間には幻聴などというものがあるのだろうか。
③.時期
3つめの一般的仮説は、意識は<二分心>の崩壊後に習得されたというものだ。
神を失ったために生じた混乱の中で、いかに行動すべきかを知りえない苦悩から新たな社会状況が生まれ、古いものにとって代わるという新たな精神構造が生み出されたと考えられる。
④.2つの部分から成る脳
----------
認知力の爆発的向上
意識を獲得した人間は、想像上の未来を「のぞき」込み、まるですでに現実であるかのように、将来抱くかもしれない恐怖や喜び、希望、野心を見出すことができるようになった。
過去は空間の<比喩語>から姿を現し、私たち人間はその長い影を通じて、追憶や回想と称される新しい軌跡のような家庭を辿れるのだ。
自己
私たち人間は自分自身や他人の中に、たえず自己というものを築き上げ、創りだしている。
自我という観念には、何ができるか、あるいはできないか、何をすべきか、あるいはすべきでないかを判断する手がかりになるという利点がある。
<二分心>の人間には安定したアイデンテイテイ、すなわち名前があり、彼ら自身や周囲の人間はそこに形容辞をつけることができた。
しかし、そうした言語によるアイデンテイテイは、意識的に築き上げられた自己に比べれば、はるかに浮薄な行動様式にすぎない。
この自己は一定せず、脆く、守勢のものながら、様々な洗濯を伴う意識的な人生というふらつきにも導いてくれる。
情動から感情へ
出来事や経験を位置づけたり、思い返したり、予想したりできいる、空間化された新たな時間は意識上に自己を築き上げただけでなく、人間の感情にも劇的な変化をもたらした。
まず、「情動(affect)」という単語からしてそう。
私は過去や未来の情動に対する意識を、「感情(emotion)」と呼びたいと思う。
感情とは情動に対する意識で、過去も未来も含めた一生という枠で捉えられるアイデンテイテイの内部にある。
そして注目すべきは、この感情を抑える生物学的な進化に基づくメカニズムがまったくないという点だ。
恐怖から不安へ
現代人に備わった過去の恐怖を思い出したり、これから起きるかもしれない恐怖を想像したりすると、そこには不安という感情が入り混じる。
「不安」はさしずめ「恐怖の知識」ということになろう。
恥から罪悪感へ
第2の生物学的情動は「恥」だ。
恥は社会の中で喚起される情動なので、動物についても人間についても、実験により検証されることはほとんどなかった。
恥は、ヒエラルキーのある集団から拒絶されたときにみせる服従反応でもある。
実際、大人になるまでに、私たちは過去の恥によってきっちりと枠にはめられ、社会的に許容される行動の狭い帯域内に閉じ込められてしまうので、恥をかくことはほとんどなくなる。
紀元前1000年以前の人々は、決して罪悪感を抱かなかった。
当時、「恥」は集団をまとめあげる手段だった。
恥とは対照的に、罪悪感が当時生まれた感情だった。
罪悪感を拭い去る生物的なメカニズムもまた存在しない。
罪悪感をいかに拭い去るのかという問題から、やがて経験的に習得された「社会儀式」が発展してきた。
交尾から「セックス」へ
第3の事例は、「交尾」の情動だ。
-------
プリンストン大学にて、 1990年
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_
2009年8月20日木曜日
: 第3部 <二分心>の名残り "科学という占い"
● 2005/04
『
催眠
------------
心理学が抱える諸問題で中でも、「催眠」はもてあまし者だ。
意識とその起源についてまじめな仮説を立てようと思うなら、この異常な形の行動規制が突きつける難題から目をそむけるわけにはいかない。
"催眠"が過剰なまでに人を従わせる力を持っているのは、<二分心>を可能にする一般的パラダイムを用いて、意識をもってしては成しえない絶対的な制御を行動に加えることができるからだ。
もし現代人の精神構造が通説とおり遺伝子で決められた不変の特性であって、哺乳類の進化過程で、あるいはそれ以前の段階で生物に備わったものだというなら、催眠一つでこれほどまでに変えられてしまうのは「なぜなのか」。
進化によって発達したとの見方を捨て、意識は文化の要請に従って学習された能力なのだと考え、その根底には古い時代の有無を言わせぬ行動制御の土台が残っていることを想定して初めて、催眠による著しい心の変容にも納得がいくように思える。
異常なまでの物事を容易にし、普通なら非常に苦労しなければならぬことを、私たちに可能にさせる催眠の力とは、いったいなんなのか。
いや、そもそもそうした行為をしているのは「私たち」なのかだろうか。
催眠時には、まるで別の誰かが私たちの体を使って行動しているように思える。
これはどうしたことか。
そして、なぜ催眠状態では物事がたやすく行えるのか。
催眠時にはアイデンテイテイも行動も変えられるのに、なぜ正気のときに自分で自分を変えられないのか。
施術者が被験者を意のままに操るように、自分のどんな行動も自分で決めたとおりに行えてよいはずだ。
科学という占い
-----------------------
科学が必死になって自然と格闘しながら、これほど真剣に求める「確実性」 なる恵みは、いったいどんな性質のものなのか。
なぜ私たちは、森羅万象に正体を明らかにするよう求めたりするのか。
それにこだわる理由は何なのだろう。
人を科学に向かわせる衝動の一部は、不可解なものをとらえ、目新しいものを見たいという、たんなる「好奇心」だ。
私たちはみな、未知の世界を目の前にした子どもたちなのだ。
「科学という風習」の第二の原動力で、しかも好奇心以上にこの風習の維持に役立っているのが「テクノロジー」だ。
テクノロジーそのものが歴史の中で抑制の効かぬほど勢いを増し、その科学的基盤を進歩させている。
そしてそれはひょっとすると、狩猟者としての問題を追い詰めようとようとする「性向決定構造」が、人を真実に向かわせるもう一つの動機なのかもしれない。
科学については、様々な源の向こう側に、もっと普遍的なもの、この分化・専門化の時代にはあまり語られないものが潜んでいる。
それは、「存在の全体性」、物事をはっきり定める本質的な現実、「宇宙全体とその中の人間の位置」といったものの理解だ。
それは、最終的な答えを求めて星々の間を暗中模索することであり、無窮の普遍的事実を求めて無限小の世界をさまようことであり、道の世界の深部へ深部へと行脚することだ。
その目的の起点は歴史の靄の彼方にあって、<二分心>の崩壊で失われた「命令の声」を探すことである。
真の問題は、人は失った神の権威を、神の声を聞いた古代の預言者たちからローマ教皇が継承したものを通して見出すか、それとも、今現在の客観的世界において、自分自身が経験している天空を聖職者の仲介なしで探すことを通して見出すか、どちらにすべきかということなのである。
周知のとおり、後者はプロテスタント主義となり、その合理的側面が「科学革命」と呼ばれるものになった。
科学革命を正確に理解するつもりなら、その最強の起動力とは、隠された神性の不断の探求だったことを常に頭に入れておくべきだ。
その意味で。科学革命は<二分心>の崩壊に由来している。
2000年紀には、そうした聖典は権威を失った。
科学革命によって、人々は昔からの言い伝えに背を向け、失った神の権威を自然の中に見出した。
この4千年の間に私たちは、ゆっくり、しかも容赦なく、人類は神を離れ、俗化してきたのである。
ヘルマン・フォン・ヘルムフォルツは「エネルギー保存の法則」を発表した。
彼はこの原理を数学的に扱い、エネルギー変換の「閉じた世界」には外からの力はまったく働いていないという点を冷静に強調した。
天に神々の居場所はなく、物質でできたこの閉じた宇宙には、神の影響力が忍び込んでくるような亀裂はいっさいない、というわけだ。
「博物学」の研究は一般に、自然の中に慈悲深い創造主の完璧な御業を見つけるという、心和む楽しい学問だった。
そういう穏やかな動機や慰めにとって、まさにそういう研究をしていたアマチアの」博物学者、チャールズ・ダーウインは、あらゆる自然を創造したのは「神の知力」ではなく「進化」であるという説を発表したほど壊滅的なものはなかった。
新たに強調された説は、驚くほど強烈で容赦なかった。
打算のない「冷酷な偶然」によって、一部の生物が他の生物より、よりうまくこの生存競争に勝ち残れるようになり、その結果、新しい世代が次々にたくさん繁殖できるようになった。
そうやって盲目的に、そして無慈悲とさえ言えるほどに、人類は物質から、「単なる物質から」創り出された、というのだ。
自然淘汰による進化論は、<二分心>、時代の深遠な無意識にまでまっすぐさかのぼる伝統---人間は神エロヒムの意思によって創られたという、人間を気高きものにしていた伝統---のいっさいの終焉を告げる、くぐもった鐘の音だった。
この理論の一言で、外からの権威などいらないのだと言い放った。
見よ!
そこには何にもない。
私たちがやらねばならぬことは、私たち自身から出てこなくてはならないのだ。
ゆっくりかもしれないし、たちまちかもしれない、ひょっとすると、私たちの精神構造がさらに変化する可能性さえある。
近代科学そのものは、全体をおおまかに見れば、同じようなエセ宗教的な様相を呈している。
そういう言わば「科学主義」は、科学的観念の群れで、その観念が集まると、思いがけず宗教的な教養になる。
その宗教教義とは、すなわち現代の科学と宗教の分裂によって残された、痛切な空白をうずめる「科学神話」だ。
科学主義は宗教に取って代わろうとしているが、当の宗教が引き起こしたことと同じ反応を誘うという点で、古典的な科学やその一般理論とは異なる。
科学主義の特徴として際立つものは、宗教と共通している点が多い。
たとえば、すばらしく合理的にすべてを説明する。
信奉者たちは心から帰依することを求められるが、その代わりに、かって宗教がもっと普遍的に人間に与えていたものを受け取る。
それは、世界観であり、価値のヒエラルキーであり、自分が何をなし、何を考えるべきかをしることのできる予言の場であり、つまり「人間についての完全な説明」だ。
唯物論は、そのような科学主義の先がけの一つだった。
医学の中で最も科学主義が顕著なのは「精神分析」であろう。
私自身の立場でもっとも近い例として、「行動主義」をつけ加えよう。
迷信というのは、結局、知りたいという穂っ旧を満たすために、むやみに大きくなった「比喩」に過ぎないのだ。
遠大の様々な動きは、人類の諸文明という長大な歴史絵巻の中でみると、古代の人間性の構造が失われたことに関係していると考えられる。
それは、実在しない詩神ムーサたちのもとに戻ろうとする詩人のように、もはや存在しないものへ回帰しようとする試みであり、私たちが生を受けた、この変わり目の数千年間の特徴なのだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
_
『
催眠
------------
心理学が抱える諸問題で中でも、「催眠」はもてあまし者だ。
意識とその起源についてまじめな仮説を立てようと思うなら、この異常な形の行動規制が突きつける難題から目をそむけるわけにはいかない。
"催眠"が過剰なまでに人を従わせる力を持っているのは、<二分心>を可能にする一般的パラダイムを用いて、意識をもってしては成しえない絶対的な制御を行動に加えることができるからだ。
もし現代人の精神構造が通説とおり遺伝子で決められた不変の特性であって、哺乳類の進化過程で、あるいはそれ以前の段階で生物に備わったものだというなら、催眠一つでこれほどまでに変えられてしまうのは「なぜなのか」。
進化によって発達したとの見方を捨て、意識は文化の要請に従って学習された能力なのだと考え、その根底には古い時代の有無を言わせぬ行動制御の土台が残っていることを想定して初めて、催眠による著しい心の変容にも納得がいくように思える。
異常なまでの物事を容易にし、普通なら非常に苦労しなければならぬことを、私たちに可能にさせる催眠の力とは、いったいなんなのか。
いや、そもそもそうした行為をしているのは「私たち」なのかだろうか。
催眠時には、まるで別の誰かが私たちの体を使って行動しているように思える。
これはどうしたことか。
そして、なぜ催眠状態では物事がたやすく行えるのか。
催眠時にはアイデンテイテイも行動も変えられるのに、なぜ正気のときに自分で自分を変えられないのか。
施術者が被験者を意のままに操るように、自分のどんな行動も自分で決めたとおりに行えてよいはずだ。
科学という占い
-----------------------
科学が必死になって自然と格闘しながら、これほど真剣に求める「確実性」 なる恵みは、いったいどんな性質のものなのか。
なぜ私たちは、森羅万象に正体を明らかにするよう求めたりするのか。
それにこだわる理由は何なのだろう。
人を科学に向かわせる衝動の一部は、不可解なものをとらえ、目新しいものを見たいという、たんなる「好奇心」だ。
私たちはみな、未知の世界を目の前にした子どもたちなのだ。
「科学という風習」の第二の原動力で、しかも好奇心以上にこの風習の維持に役立っているのが「テクノロジー」だ。
テクノロジーそのものが歴史の中で抑制の効かぬほど勢いを増し、その科学的基盤を進歩させている。
そしてそれはひょっとすると、狩猟者としての問題を追い詰めようとようとする「性向決定構造」が、人を真実に向かわせるもう一つの動機なのかもしれない。
科学については、様々な源の向こう側に、もっと普遍的なもの、この分化・専門化の時代にはあまり語られないものが潜んでいる。
それは、「存在の全体性」、物事をはっきり定める本質的な現実、「宇宙全体とその中の人間の位置」といったものの理解だ。
それは、最終的な答えを求めて星々の間を暗中模索することであり、無窮の普遍的事実を求めて無限小の世界をさまようことであり、道の世界の深部へ深部へと行脚することだ。
その目的の起点は歴史の靄の彼方にあって、<二分心>の崩壊で失われた「命令の声」を探すことである。
真の問題は、人は失った神の権威を、神の声を聞いた古代の預言者たちからローマ教皇が継承したものを通して見出すか、それとも、今現在の客観的世界において、自分自身が経験している天空を聖職者の仲介なしで探すことを通して見出すか、どちらにすべきかということなのである。
周知のとおり、後者はプロテスタント主義となり、その合理的側面が「科学革命」と呼ばれるものになった。
科学革命を正確に理解するつもりなら、その最強の起動力とは、隠された神性の不断の探求だったことを常に頭に入れておくべきだ。
その意味で。科学革命は<二分心>の崩壊に由来している。
2000年紀には、そうした聖典は権威を失った。
科学革命によって、人々は昔からの言い伝えに背を向け、失った神の権威を自然の中に見出した。
この4千年の間に私たちは、ゆっくり、しかも容赦なく、人類は神を離れ、俗化してきたのである。
ヘルマン・フォン・ヘルムフォルツは「エネルギー保存の法則」を発表した。
彼はこの原理を数学的に扱い、エネルギー変換の「閉じた世界」には外からの力はまったく働いていないという点を冷静に強調した。
天に神々の居場所はなく、物質でできたこの閉じた宇宙には、神の影響力が忍び込んでくるような亀裂はいっさいない、というわけだ。
「博物学」の研究は一般に、自然の中に慈悲深い創造主の完璧な御業を見つけるという、心和む楽しい学問だった。
そういう穏やかな動機や慰めにとって、まさにそういう研究をしていたアマチアの」博物学者、チャールズ・ダーウインは、あらゆる自然を創造したのは「神の知力」ではなく「進化」であるという説を発表したほど壊滅的なものはなかった。
新たに強調された説は、驚くほど強烈で容赦なかった。
打算のない「冷酷な偶然」によって、一部の生物が他の生物より、よりうまくこの生存競争に勝ち残れるようになり、その結果、新しい世代が次々にたくさん繁殖できるようになった。
そうやって盲目的に、そして無慈悲とさえ言えるほどに、人類は物質から、「単なる物質から」創り出された、というのだ。
自然淘汰による進化論は、<二分心>、時代の深遠な無意識にまでまっすぐさかのぼる伝統---人間は神エロヒムの意思によって創られたという、人間を気高きものにしていた伝統---のいっさいの終焉を告げる、くぐもった鐘の音だった。
この理論の一言で、外からの権威などいらないのだと言い放った。
見よ!
そこには何にもない。
私たちがやらねばならぬことは、私たち自身から出てこなくてはならないのだ。
ゆっくりかもしれないし、たちまちかもしれない、ひょっとすると、私たちの精神構造がさらに変化する可能性さえある。
近代科学そのものは、全体をおおまかに見れば、同じようなエセ宗教的な様相を呈している。
そういう言わば「科学主義」は、科学的観念の群れで、その観念が集まると、思いがけず宗教的な教養になる。
その宗教教義とは、すなわち現代の科学と宗教の分裂によって残された、痛切な空白をうずめる「科学神話」だ。
科学主義は宗教に取って代わろうとしているが、当の宗教が引き起こしたことと同じ反応を誘うという点で、古典的な科学やその一般理論とは異なる。
科学主義の特徴として際立つものは、宗教と共通している点が多い。
たとえば、すばらしく合理的にすべてを説明する。
信奉者たちは心から帰依することを求められるが、その代わりに、かって宗教がもっと普遍的に人間に与えていたものを受け取る。
それは、世界観であり、価値のヒエラルキーであり、自分が何をなし、何を考えるべきかをしることのできる予言の場であり、つまり「人間についての完全な説明」だ。
唯物論は、そのような科学主義の先がけの一つだった。
医学の中で最も科学主義が顕著なのは「精神分析」であろう。
私自身の立場でもっとも近い例として、「行動主義」をつけ加えよう。
迷信というのは、結局、知りたいという穂っ旧を満たすために、むやみに大きくなった「比喩」に過ぎないのだ。
遠大の様々な動きは、人類の諸文明という長大な歴史絵巻の中でみると、古代の人間性の構造が失われたことに関係していると考えられる。
それは、実在しない詩神ムーサたちのもとに戻ろうとする詩人のように、もはや存在しないものへ回帰しようとする試みであり、私たちが生を受けた、この変わり目の数千年間の特徴なのだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年8月9日日曜日
: 第2部 "意識のもと"
『
第3章 意識のもと
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前2000年紀はそのままでは終わらぬ運命にあった。
戦争と大災害と民族移動がこの1000年紀の中心テーマとなった。
大混乱が「無意識の聖なる輝き」を暗雲でおおった。
ヒエラルキーは突然崩壊した。
言語に基づいたアナログの<私>を伴う、「アナログ空間」が創造され、神々の専制政治は遮蔽さtれた。
入念に作られた精巧な<二分心>構造はぐらつき、「意識」に変わっていった。
これが本章のきわめて重要なテーマだ。
現代の世界では、厳格な専制政治から、軍国主義や警察組織による抑圧を連想する。
だがこの連想を<二分心>時代の専制国家に当てはめるべきではない。
<二分心>の時代には<二分心>こそが社会を統制しており、恐怖や抑圧による支配はもとより、法律による支配さえなかった。
個人的野心や個人的欲求不満など、個人的なものはいっさい存在していなかった。
それは<二分心>の人間には一個人になるための「内なる空間」も、一個人になるべきアナログの「私」もなかったからだ。
すべての主導権は神々の声になった。
したがって、それぞれの<二分心>国家内では、人民はおそらくそれ以降のどの文明よりも平和的で友好的だったろう。
意識の古生物学で、その研究が進めば、私たちが「主観的意識」と呼ぶ「比喩化された世界」が、どんな特別の社会的圧力のもとで、いかにして出来上がったかを、段階を追って認識できるだろう。
相違を観察することが意識のアナログの空間の起源になるかもしれない。
見知らぬ人々がたとえ自分と同じように見えても、違う話し方をし、反対意見を持ち、違う行動をとるのを観察すると、相手の内面に何か異なるものがある、という仮定にいきつく。
この考えは、哲学の伝統の中で、私たちにも伝えられてきた。
思考や意見、妄想は「実際の」「客観的」世界には存在する余地がないから、人の内面で起こる主観的現象だ、というのがそれだ。
自分自身の心から他人を推量する理論としてこの問題をとらえる哲学の伝統は、考え方が180度間違っているのだ。
私たちはまず、他人が意識を持っているということを無意識に想定し、その後それを一般化することで自分自身の意識の存在を推量しえる。
「物語化」は、過去の出来事の報告を成文化するものとして出現した、というのが私の見方だ。
文字はこの時代まで-----と言っても、発明されてから、ほんの数世紀しかたっていないが-----おもに「在庫目録」に使われており、神の財産の貯蔵や交換の記録手段だった。
それが次に、神の命じた出来事の記録手段となり、後に行われる復唱が叙事詩の「物語化」になる。
意識への非役が引き起こした混乱の中で、人間はこの記憶能力と記憶をパターンへと「物語化」する能力を身につけたのだ。
融通のきかない「二分心」の人や、慣れ親しんだ神威への服従が強い人が消滅し、衝動性の少ない人や「二分心」の傾向が弱い人の遺伝子が残されて、」次の世代に受け継がれていく。
意識はそれぞれの世代が新たに習得しなければならない。
意識を習得する能力が生物学的に大きい者ほど、生存の可能性が高い。
かたくなな「二分心」の子どもたちは、いとも簡単に殺されてしまった。
私は「二分心」から「意識」への飛躍の過程で作用した、いくつかの要因の概要を述べてきた。
それらの要因は次の通りだ。
(1). 文字の出現によって幻聴の力が弱まったこと。
(2). 幻覚による支配の脆弱性が内在していたこと。
(3). 歴史の激変による混乱の中で神々が適切に機能しなかったこと。
(4). 他人に観察される違いを内面的原因に帰すること。
(5). 叙事詩から「物語化」を習得したこと。
(6). 「欺き(あざむき)」は生き残るために価値があったこと。
(7). そして最後に、少しばかり自然淘汰の力を借りたこと。
「二分心」の神政政治の世界では、その精神構造は短命で、今日の私たちが意識と言っているいるものとはほとんど共通点がなかった、と私は考える。
ここで論じているのは「文化的標準」のことであり、文化的標準が激しい変化を経験した証拠が、次章以降の題材となる。
意識への飛躍がひじょうに容易に観察できる例が世界に3つある。
「メシポタミア」と「ギリシャ」、そして「二分心の難民」だ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年8月7日金曜日
: 第2部 歴史の証言 "文字を持つ"
『
第2章 文字を持つ<二分心>の神政政治
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文字とは何か?
文字は「視覚的事象の図絵」から「音声的事象の符号」へと進化する。
後者でいう文字は、読者に「未知の情報」を伝えようとする。
前者に近いほど、もっぱら「記憶再生を助ける手段」という意味合いが増し、「既知の情報」を読者に喚起することになる。
これらを見る者たちに喚起されるはずの情報は永遠に失われる可能性があり、その結果、文字は永遠に解読されないこともありうる。
この両極にある文字の中間に位置し、半ば図絵で、半ば符号という2種類の文字を本章ではとりあげる。
1つは「神々の書」を意味するエジプトの「ヒエログリフ(象形文字)」と、これを簡略化した筆記体の「神官文字」、
もう1つは、それより広範に使われ、後に学者たちが楔の形に似た自体から「楔形文字」と名づけた文字だ。
楔形文字は、英語の26文字などとは違って、「600」を越える記号を使った、扱いにくく不明瞭な伝承形式だ。
その多くは表意文字で、同一記号が1つの音節、1つの意味、1つの名前を表すこともあれば、複数の意味を持つ単語になることもある。
それは文字の分類によって決まるのだが、分類はある特定の目印で不規則に示される。
文字がどの種類かは、文脈からしかわからない。
楔形文字の使用当時も、意味を確定するのは並大抵のことではなかった。
いわんや、4000年の隔たりのある今では、解読は興味深くはあるものの、とてつもない難題となっている。
ヒエログリフや神官文字についても一般に同じことがいえる。
楔形文字の文献の多くは受領書、物品目録、神々への賛辞なので、用語はたいてい具体的であるため、解読を誤る心配はほとんどない。
しかし、用語が抽象的になりがちなとき、とりわけ心理学的な解釈が可能なときなどは、訳文をわかりやすくしようと、善意の翻訳者が「現代的なカテゴリー」を押しつける例が見受けられる。
古代人を現代人のようにみせかけたり、あるいはせめて欽定英訳聖書のような文体で語らせようとしたりする。
解読者は、実際に読み取れる以上のものを読み込むことが多い。
人類の「考古心理学」の資料として、当てにするつもりならば、具体的な行動に基づいて正確に解釈し直す必要がある。
お断りしておくが、本章の与える印象は、同じ題材を扱った一般の書物と一致しない。
紀元前1792年、このように行政に文書を取りいれたことで、それまでにはほとんどみられぬ類の政府が誕生した。
指揮にあたったのは、管財人たる歴代の王のうちで最も偉大なバビロンの都市神マルドウクの従僕「ハムラビ」だ。
ハムラビは、識字能力があり、書記を必要としなかった最初の王とさえ考えられている。
ハムラビの最も有名な遺産は、いくらか拡大解釈され、またおそらく誤った呼称を付された「ハムラビ法典」だ。
これは墨色の玄武岩でできた、高さ2.25メートルほどの石柱で、ハムラビの治世の末期に、本人の彫像のそばに建てられた。
刻まれているのは、「282条」におよぶ穏やかな神の判決だ。
同法が、紀元前18世紀の人々が行っていたとする事柄を、計画・工夫し、歎いたり、喜んだりする主観的な意識を持たぬ人間が実行できるとはとても想像しがたい。
すべてがいかに原始的であり、私たちの用いる現代訳語がいかに五回を招きやすいかを思い起こす必要がある。
「金銭」あるいは「貸付」とまで誤訳されている原語「カスプ」は「銀」を意味するに過ぎない。
それが今日の感覚でいう金銭を指していたとは思えない。
この時代には硬貨は1枚も見つかっていないのだ。
現代の金融用語を用いた訳などは不正確きわまりない。
楔形文字の史料翻訳の多くで、学者たちが現代的な志向のカテゴリーを無理に当てはめようとする例が後を絶たない。
古代文化をもっと親しみやすいものとして、現代の読者により興味深いものにしようとしてのことだろう。
ハムラビ法典に定められた法規は、当時はまだない警察によって強制的に施行される現代法の観点から考えるべきではない。
それはバビロンの慣習法を列挙したものの、マルドウク神の声明であり、その強制力は、この石碑に刻まれれているという信頼性だけで十分だったといえる。
ここでこれまでの要約をしてみよう。
前章と本章では、膨大な歳月にわたる過去の記録の考察を試みた。
これは以下のような考えが妥当であることを示すためだった。
すなわち、古代人やその文明の背景には現代人とまったくことなる精神構造があり、古代人は私たちのような意識を持たず、自らの行動に責任があったわけではない。
それゆえ、何千年という長大な期間になされたいかなる行動も、称賛や非難に値しないこと、その代わりに、個々の人間の神経系には神のような部分があり、彼らは奴隷のようにその命令に言いなりだったこと、その命令は、1つあるいは複数の声のような形をとり、その声はまさに今日で言う意志にあたり、命令の内容に力を与え、また念入りに設定された序列によって他者の幻の声と関係づけられていたことだ。
神々は誰かの想像から生まれた虚構などでは断じてなく、それは人間の意志作用だった。
神々は人の神経系、おそらく右大脳半球を占め、そこに記録された訓戒的・教訓的な経験をはっきりと言葉に変え、本人は「何を為すべきか」を「告げた」のだ。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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2009年8月2日日曜日
: 第1部 人間の心
● 2005/04
『
第1章:意識についての意識
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ほんとうは意識に在りかなどない。
ただ私たちが、勝手にあると想像しているだけなのだ。
意識は通常考えられているようなものではない。
意識は「反応性」と混同されてはならない。
意識は多くの知覚現象に関わっていない。
意識は技能の遂行に関与せず、その実行を妨げることも多い。
意識は話すこと、書くこと、読むことに必ずしも関与する必要はない。
経験をコピーしてもいない。
意識は信号学習に無関係であり、技能や解決法の学習にも必ずしも関与する必要はない。
意識は判断を下したり、単純な思考をしたりするのにも必要ない。
意識の在りかは、想像上のものでしかないのだ。
となると、すぐに沸いてくる疑問は、そもそも「意識は存在するのだろうか」というものだ。
この問題は次章に譲るとしよう。
ここでは、私たちの活動の多くに、「意識はたいした影響を持たない」と結論しておけば事足りる。
もし、この推論が正しければ、会話や判断、推理、問題解決にとどまらず、私たちのとる行動のほとんどを、まったく意識を持たぬ状態でこなす人々がかって存在しえた可能性は十分ある。
この見解は、重大であると同時に、いささか衝撃的だ。
が、現時点ではそう結論せざるをえない。
「意識のない文明」がありうると信じていただけなければ、今後の論考は説得力のない、道理に反したものになってしまう。
第2章:意識
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本章は難解だった。
意識が比喩から生まれた世界のモデルであるという考えから、実に明白な推論が幾つか得られる。
その推論は私たちの日常における意識ある経験によって検証できる。
この2点をいくばくの信憑性をもって示せたのであれば幸いだ。
これは意識の理解に通じる糸口、それも少々頼りない糸口であり、将来さらに発展させれればと私は願っている。
そろそろ本書の主題である「意識の起源の探究」に戻ってもよいころあいだ。
もし、意識が「言語に基づいて創造されたアナログ世界」であり、数学の世界が事物の数量の世界と対応するように、行動の世界と対応しているとしよう。
すると「意識の起源」について何が言えるだろうか。
もし、意識が言語に基づいているとすると、その起源はこれまで考えられてきたより、かなり現在に近いことになる。
意識が言語の後に生まれたとは!
このような立場が暗示するところは、きわめて重大だ。
第4章 <二分心>
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前章で導きだされた途方もない仮説は、遠い昔、人間の心は、
1.命令を下す「神」と呼ばれる部分と、
2.それに従う「人間」と世ばれ部分に
二分されていた、というものだ。
どちらの部分も意識されなかった。
これはほとんど私たちの理解を超えている。
この仮説を身近に経験するものに当てはめようと考えてみたいと思う。
これが本章の狙いだ。
主観的意識を持つ人間の意思を説明することは、今なを難解な問題であり、満足のいく解答は得られていない。
<二分心>の人間の場合は、この声こそが意思だった。
別の言い方をすれば、意思は神経系における命令という性質を持つ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、「聞くことが従うこと」だったのだ。
第5章 2つの部分から成る脳
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<二分心>の人間の脳では何が起きているのだろうか。
ほんの3000年前の現在とはまったく異なった種類の精神構造が存在していたというような、私たちの人類の歴史においてきわめて重要な類の事柄には、なんとしても生理学的な説明が必要だ。
<二分心>時代には、ウエルニッケ野に相当する右(劣位)半球の領域には精密な<二分心>の機能があったが、発達の初期段階で<二分心>が生まれても、その発達が阻害されるような心理的な再組織化が1000年にわたって行われ、この領域は異なる機能を持つようになった、と考えても差し支えないと思う。
また同様に、現在、意識が神経学的にどのようであろうと、その状態がいつの時代でも普遍であると考えるのは誤りだろう。
脳の組織は絶対的なものでなく、発達のプログラムが異なれば組織構造も異なったものになりうることを示唆している。
』
[注:訳者あとがきより]
原語は「bicameral mind」で、「bi」は「二」、「camera」は部屋、「l」は形容詞語尾、あわせて「二室の」「二院制の」、「mind」は「心」だから、直訳すると「二室の心」「二院制の心」となる。
このままでは日本語としてしっくりこないので、仮に<二分心>と訳してみた。
[注]
「camera」は一般には「カメラ」「写真」「撮影」といった使い方が多い。
「mind」は「心」「精神」「理性」「理知」「意思」などの意味を持つ。
とすると「複影心」あるいは「複像知」「複映知」といった風にも訳せる。
日本語としてはしっくりしない。
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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神々の沈黙:ジュリアン・ジェインズ
● 2005/04
『
序章:意識の問題
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自らの過去と未来の行動を収めた問題の書を、つぶさに調べ上げる調べ上げることのできる隠れ家。
鏡に映るもののどれよりも自分らしい内なる宇宙。
自己の中の自己、すべてでありながら何物でもない、この意識。
いったいその正体は?
そして、それはどこから生まれてきたのか>
そして、なぜ?
人間は、意識が生まれたほぼその瞬間から意識の問題を意識してきた。
どの時代においても、それぞれの主題と関心に沿って意識を記述してきた。
意識の性質の探求は「心身問題」として知られ、重苦しい哲学的解釈に傾きがちだった。
しかし、進化論の出現以降は、より科学的な問題へと形を変えた。
つまり、心の期限、さらに詳しくいえば、進化の過程における意識の期限の問題になったのだ。
私たちは、ただの物質からどうやって内的世界を引き出しうるのか。
もしそれが可能なら、それは何時可能になったのか。
この問題は20世紀の思潮の中心にあった。
この問に対する答えをいくつか手短に見直すのも有益だろう。
特に重要だと思う8つの説について説明することにしよう。
1.物質の属性としての意識
2.原形質の属性としての意識
3.学習としての意識
4.形而上の付与物としての意識
5.無力な傍観者論
6.創発的進化
7.行動主義
8.網様体賦活系としての意識
私たちには、心的現象を神経構造や化学で説明しようとする性癖があり、それが誤っているのだ。
神経系について知りうるのは、行動を観察して確認したことだけだ。
神経系の配線図がわかったとしても、わたしたちは基本的問題の答えを得ることはできない。
私たちは脳に関する知識だけから、その脳が私たちのような意識を持っていたかどうか、を知ることは絶対にきない。
もず最も重要な問題、「意識が何であるか」という概念、私たちの内観がいったいナンなのかというところから始めなければならない。
「意識とは何か」を規定することから、新たに始める必要がある。
これが難業である。
あるものの正体を明かす手がかりが得られないとき、「それが何でないか」を問うことからはっじめるのは賢明なやり方だ。
それが次章の仕事になる。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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