
● 2008/04[****]
『
春秋という時代をどこまでにするかによって、戦国時代の開始が異なる。
諸説あるなかで、私は周の敬王44年(紀元前476年)を春秋時代の末年とし、当然のことながら、その翌年、すなわち周の元王元年(前475年)を「戦国時代初年」とする。
むろんその頃生きていた人びとが、昨日まで春秋時代で、今日から戦国時代であるという意識はなかったであろう。
時代の区分は後世の者の便宜である。
春秋も戦国も東周王朝期であるという言い方をすると、その末年にズレが生じる。
つまり紀元前222年に秦王政(始皇帝)は燕と趙を滅ぼし、翌前221年から秦王朝が始まったことになる。
ところが、戦国時代は東周王朝期の別称であるとみなすと、その終わりは周の"たん王”(注・辞書にない)の没年と同じで紀元前256年であり、戦国時代の終わりよりも34年も早い。
実は"たん王"の没年の次ぎの年から秦王朝期が始まっているとみたほうがよいと私は思っているのえであるが、それを書くと、
<秦王朝は紀元前221年からです>
と、必ず訂正される。
くどいようであるが、「春秋」と「戦国」は王朝名ではない。
さて「戦国七雄」といって、
「秦、魏、韓、趙、楚、燕、斉」
という七国が戦国時代の大国であり、これらの国がまったくかかわりをもたぬ事件や戦争は、歴史の外へ掃きだされてた。
歴史とはそういうものだろう。
春秋時代にあった国で重要さをもたぬ小国を除くと、次ぎの15国が記憶されているはずである。
「周、魯、斉、晋、秦、楚、宋、鄭、衛、曹、陳、蔡、燕、呉、越」
それがどうして七国のなったか、というのが時代の内容である。
内容は各国の内政と外交、それに軍事にかかわることになるので、一概にはいえないが、外観をわかりやすくするため、諸国の興亡表を作ってみる。
ことわっておくが「史記」の記述は戦国時代に限ってみだれが大きく、信憑性に欠ける。
<表略>
時代的な外観をいえば、戦国時代を前・中・後とわければ、
前期は「魏」の全盛であり、魏王は天子きどりであった。
中期は斉・秦の「二大王朝」並立期といってよく、合従連横(衡)のため権謀作術がさかんに行われた。
後期は秦の限りない拡大があり、各国の滅亡に伴う悲哀の色に満ちている。
夏(か)から始まる中国の王朝期の最後の清(しん)までみても、本当に自由な発想が許されたのは、この東周後期、すなわち戦国時代においてのみである。
人々は宗教と教学のきはんからのがれて、何を考えてもよく、どう行動してもよかったのである。
中国にあって奇跡的な時代とは、戦国時代のことであり、空前絶後であるといっても過言ではない。
貴族や富人の家には、床暖房や水洗トイレまで完備し、国には、軍事用とはいえ、高速道路が走っていた。
女性が化粧するようになったのも、この時代からであり、黛をつかっての眉の描き方も現代人と違わない。
燭台の豪華さは、いまのシャンデリアとかわらない。
斉の国都である臨淄の人口は60万以上であり、紀元前のその頃に、それほどの人口をもった都市が、アジアで、いや全世界のどこにあったというのか。
まさに、中国の戦国時代はどう熱の時代であった。



』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 2008/03[****]
『
孫武は「孫子」という中国で最高の兵法書の著者として、あまりにも有名であるが、その生涯は霧塞といってよい。
かれの小伝は「史記」の「孫子呉起列伝」にある。
とはいえ、「春秋左氏伝」では、孫武の影も形もない。
したがって孫武の事跡をたどろうとすると、「史記」以外に道はない。
「呉越春秋」は「史記」よりはるかに遅い後漢時代の成立である。
それゆえ「史記」の文を注意深くみてゆくことにしたい。
<孫子武は斉人なり>
これが没頭の文である。
孫子は呉人ではなく、出身は斉であったという。
斉にいた孫武はどのような事由があって呉に来たのであろうか。
<兵法を以って呉王こうりょ(注:辞書にない文字、以下"呉王"とする)に見ゆ>
と「史記」にある。
孫武が呉王に謁見したのは「呉越春秋」によると伍子胥の推薦による、とある。
晴耕雨読の生活を続けていた伍子胥がどのように孫武を知ったのか。
兵法家として少し名が知られはじめていた孫武を訪ねた伍子胥訪ねたは、その著書を読んで驚嘆し、自身が呉王に仕えるや、すぐに使者を立てて、まずその著書を呉王に読んでもらい、ついでに孫武を推挙したのであろう。
私見としては、孫武は伍子胥が呉王の臣下になるまで、斉にいたとみる。
現代人が手にすることができる「孫子」も十三篇でなっている。
その十三篇は孫武自身が書いたものではあるまい、と想ったほうがよい。
「漢書」の「芸文志(げいもんし)」では82篇と記されている。
間違いないとおもわれることは、司馬遷がみた「孫子」は十三篇であり、その数を孫武の小伝を書くときに使ったにちがいない。
では、なぜ13篇が82篇になったのか。
まず13篇を読み解くうちに細分化されて82篇になったことが考えられる。
次に後世の人の註が原文に付着して区別がつけられなくなり、篇の数が増えたこともありうる。
その雑駁とした文を整理して。十三篇に作り変えたのが、後漢末の「曹操」である。
それが「魏武注孫子」であり、いまの「孫子」の祖にあたる。
それはそれとして、司馬遷が伝承を採取し、史料を検考したとき、呉王が読んだのはまさしく十三篇であり、司馬遷の添補ではないということもある。
「歴史を学ぶ」ということは、疑問からはじめるよりも、信ずるということを基礎に置いたほうがよい。
人文の世界は、巨大な疑惑の塊のようにも見えるが、純粋に信ずるということが核にあるものなのである。
人は疑うと弱くなり、信ずると強くなる。
呉王”こうりょ”が亡くなると、孫武は斉に帰ったのではあるまいか。
孫武の子孫は、おそらく兵法を家学としたはずで、その伝統のなかに「孫臏」という天才が出現する。
孫臏の出身地は斉の最西端といってよく衛に近い。
そこに孫武が落ち着いて、子孫もそこからうごかなかった、ということも考えられる。
さて、いまの「孫子」の十三篇の中で、もっとも玄妙な思想をたたえているのが「虚実篇」である。
「
兵を形(あらわ)すの極は無形に至る。
<中略>
其の戦いに勝つや、復(くりかえ)さずして、形に無窮に応ず
」
軍の形で最良なるものはとは、「形が無い」ということである。
戦いの勝ち方に二度と同じであるものはなく、相手に応じて無限に変化するのである。
宇宙の原則を「礼」という形で「体現を繰り返えそうとする儒教」に、兵法が入り込む余地がないことがよくわかる。
戦いに長じている人は、人と同じことをし難い性質を持ち、繰り返すことが苦手であるから、平治の世は生き難く、ややもすると低能者とみなされる。
それでもこの世を戦場とみなし、人はそれぞれ独自の生き方をし、二度と同じ生き方は無いという想念に立てば、「孫子」の兵法は、現代でも活用されうるのである。

● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 2008/03[****]
『
魯の孔丘が孔子とよばれるように、斉の晏嬰は晏子とよばれて、いまだに尊崇されている。
斉では管仲とならぶ最高の名臣である。
斉の隣国の魯で生まれた孔子は、晏子より21年おくれて亡くなったのであるが、儒教集団のなかでも、晏子の思想、礼法、進退、生活などが討論の対象となった。
孔子自身は晏子の人格を認めたが、その礼法や生活を批判した。
孔子が亡くなったあとに、弟子の曾子は、
「晏子は礼を知っていたと謂うことができる。恭敬の心があった」
と、いった。
曾子は孔子より46歳年下で、孔子の晩年の弟子であるはずなのだが、どういわけか晏子との逸話がある。儒教の教団のなかには晏子を認めないという気分があったのに、曾子だけは晏子を認めたので、曾子と晏子を接合する説話がのちに創られたのかもしれない。
教団の気分を代表する人は有若である。
この人は体貌が孔子に肖ていたので、孔子の死後、弟子たちは有若を立てて師とした。
「論語」を注意深く読むと、「子」、すなわち先生とよばれているのは、孔子のほかは曾子と有子(有若)がいるのみである。
そうなると「論語」は、その二人にを師とする弟子たちによって形成されたとみてよい。
晏子は生前から吝嗇な人とみなされ、太夫が先祖を祀るときには、牛と羊を供えるのに、晏子は豚の肩の肉を豆(とう)という小さな器に持っても、山盛りにはせず、洗濯した衣冠で朝廷にのぼった。
それについて孔子は
「賢い太夫であっても、あのように吝嗇では、臣下は仕えにくかろうよ」
と、批判した。
孔子の理念は「礼」によって具現化される。
その礼の世界こそ、人がもっとも住みやすい世界と信じたからである。
別の見方をすれば、国家そのものを古代にあった素朴な形体にもどしてしまうという主張は、常に現実に逆らうものであり、非現実的であり、ゆえに革命的である。
孔子が求道者であったとすれば、晏子は認識者である。
魯の内乱を嫌って出国した孔子が斉にきて景公に仕えようとしたことがある。
景公は孔子に田土を与えて召抱えようとした。
ところが、晏子がそれをさまたげた。
その発言が「史記」の「孔子世家」にある。
晏子の儒教批判である。
この批判があり、孔子の仕官をさまたげたので、晏子は孔子の弟子の多くに反感をもたれたのであろう。
「
儒者は滑稽である、というのは、知恵があって巧言をもって人の判断を誤らせる、ということです。
ゆえにその思想を規範とすることはできません。
おごり傲(あなど)り、他人の意見をきかないので、下の身分に置くことができません。
服喪を尊重して、死者を悼んで哀しみ抜き、破産するほど葬儀を立派にします。
それを我が国の慣わしとするわけにはいきません。
儒者は諸国を遊説し、財物を乞い借りたりします。
そのような者にに国を治めさせることはできません。
天下を治めるほどの賢人が歿してのち、周王室はすでに衰え、礼楽が欠けてから久しくなります。
今、孔子は容儀を美しくみせ、身を盛んに飾って、階段を登降する礼や、宮中を歩行する節を細かく定めています。
何代かかっても、その学を究めることはできないでしょう。
いますぐにその礼を究めることは難しいというものです。
君が孔子とその礼を用いて斉の慣わしを革(あらた)めようとなさるのは、細民の先頭に立って善い政治を行うことにはなりますまい。
」
晏子はそういったのであるが、なるほど、儒教とは独善的であり、他者をすべて否定し、現実をも否定するので、宗教の一つであるといえる。
晏子を特徴づけるのは
「社稷の臣」
ということである。
臣下は君主に仕えるのではなく、国家に仕えるものであるという思想がそこにある。
たとえば「晏子春秋」のなかにこういう説話がある。
「
臣下の意見が採用されていれば、----臣下が君主のために死ぬことはありません。
もしも意見が採用されず、君主の困難に殉じて死ねば、それはムダ死にです。
ゆえに、本当の忠臣とは、善言を君主に献じて実行してもらい、君主とともに困難におちいらない者をいうのです。
」
これを読んだ者は感心すると同時に、おもわず噴き出したくなるだろう。
「晏子春秋」は、晏子の言行録にはちがいないが、政治を主題とした説話集といってよく、あえていえば小説に類するものである。
その書物の成立がいつであるかは定かでない。
むろん著者もわからない。
が、これほど諧謔をもった説話は外になく、よほどの文藻をもった者が書いたのであろう。
戦国時代には成立していたであろうから、
<紀元前の書物で、これほど愉しいものはない>
と、私は断言することができる。
すでに日本では漢文の時代は終わっているが、それでも漢文を学ぼうとすると、「論語」、「孟子」、「荀子」などの儒教の聖典といってよいものと「老子」、「荘子」などの道教の奥義書に等しいものを読まされる。
いきなりそれらを読んで愉しいものか、と私には常に疑問がある。
「晏子春秋」のほうが、はるかに愉しいではないか。
』


● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 2008/03[****]
『
管仲が活躍した時代には、道教も儒教もなかった。
ただし、管仲は「法家」の祖といわれるように、法についての意識が世にさきがけて濃厚であり、善悪是非を峻別する法が、じつは、道なき道を「道」とする道教の思想から生じているように思われる。
「仁」を思想の核とし、仁を表現するために「礼」をさだめた儒教からは、法の思想は生じない。
すなわち、管仲には道教の思想が内在していたとみてよく、のちに管仲の言行と思想を解説する「菅子」という書物がうまれるが、その中に「兵法」がふくまれているのもうなずける。
「一つとしておなじ戦争がないのが戦争」
という認識から兵法は起ち上がってくるのである。
斉一国を治めるだけなら高渓(注:サンズイではなくニンベンであるが、辞書にない)と鮑叔で充分であるが、諸侯を率いる覇者になりたいのなら、管仲がいなければ不可能である。
その言は「史記」にあるが、至言といえるであろう。
貧困のときの友情を富貴になっても変わらぬことを「管鮑の交わり」といって世人はたたえることになるが、その友情の内容は深すい(注:スイの字は辞書にない)である。
管仲は桓公を殺そうとした者である。
その者を桓公は赦しただけでなく、執政者とした。
この桓公の度量の巨きさに天下は驚愕し、感心した。
管仲を国政の中央に推した鮑叔は歴史の舞台からおりた。
この行蔵(こうぞう)のみごとさも、後世、賞賛されることになる。
管仲は鮑叔の進言にあった通り、桓公を覇者にした。
彼の思想の基本は、
「およそ国を治むるの道は、まず先に民を富ます [管子]」
というものであった。
その点、貧しくても楽しく暮らす道がある、と個人に哲理を開示した儒教とはだいぶ違う。
貧困が秩序の紊乱をまねき、犯罪をうむ。
為政者がまず為すべきことは「どう国を治めるか」ではなくて、「どう国民を富ますか」であり、国民が富めば、おのずと治世はなる。
「管子」の没頭には、
倉りん実つれば、すなわち礼節を知り、衣食足れば、すなわち栄辱を知る。
という有名な文があるが、管仲の思想には、国民から税をとらないという「無税論」があったことに驚嘆すべきである。
ちなみに天下の盟主となった桓公は、周王にかわって天子となり、封禅(天と山川を祭る)を行おうとした。
それを諫止したのも管仲である。
管仲のおかげで覇者となった桓公であったが、管仲のせいで天王になれなかった。
のちに孔子は、管仲の人として
「器は小さく、礼も知らぬ」
と、きわめてきびしく批判したが、桓公の封禅をとめた管仲が礼を知らなかったといえるであろうか。
「小器で無礼」とは、天を恐れぬ者をいうのである。
』


● 挿画・原田維夫
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 2008/03[****]
『
中国の春秋時代とは、いつからいつまでであろうか。
じつは諸説ある。
が、妥当であるとおもわれることを先に言えば、それは紀元前770年から紀元前476年までである。
では、なぜそれが妥当であるのか、多少の解説が要るであろう。
中国史に明るい人にとっては、余計なことになるが、中国の王朝は、夏からはじまり、商(殷)、周、秦、漢、魏(三国)とつづく。
漢には西漢(前漢)と東漢(後漢)があり、その両王朝の間に短期ではあるが、新、という王朝があった。
中国史に暗い人でもそのくらいは理解していよう。
日本人は、秦と日本の弥生時代を比並し、さらに「後漢書」の「東夷列伝」には、日本は倭(わ)とよばれて、
倭は韓(馬韓・辰韓・弁韓)の東南、大海の中にあり。
山島に依りて居(すまい)を為(つく)る。
およそ百余国なり。
(中略)
その大倭王は邪馬台国に居す。
という記事があるので、両漢王朝を横目でみながら、古代の日本を想像することができた。
ところで邪馬台国は「やまたいこく」「やばたいこく」「やまとこく」「やまいつこく」などの読み方があるので、ここではこれと断定しない。
さて、秦のまえのの周の王朝となると、日本の縄文時代にあたり、そこにはどうしても入ってゆけない人があるらしい。
想像が空爆としてしまうのであろう。
が、よくよく考えてみると、そういう人は日本史にこだわりすぎているから、周の時代がわからないのではなく、じつは縄文時代がしっかりとつかめないので、比定しようがないということではあるまいか。
日本史を忘れて、他国の歴史に裸で飛び込むのが、怖いのである。
が、周の時代は、日本的な思考を活かしやすい社会と国家の構造があり、それゆえに、その時代に生まれた思想が、日本人の思想の根幹に接ぎ木されも、枯死しなかった。
では、周王朝に入っていきたい。
<略>
周(東周)時代の初頭には無数の国があったといってよい。
各国には史官がいて、自国の歴史を記したにちがいない。
それは年代記であり、たぶん「史記」とよばれた。
のちの司馬遷だけが史記を書いたわけではないのである。
前述した東方の魯にも「魯春秋」とよばれる史記があった。
やがて魯の国に生まれた孔子が、その年代記に手を加えた。
新訂の「魯春秋」が、『春秋』とよばれる中国最古の年代記である。
他の国の指揮がなぜ残らなかったのか、あるいは、地中におさめられて発掘されないままであるのか、それは不明である。
さて、「春秋」の記事の最初は、魯の隠公元年(前722年)であり、最後は魯の哀公14年(前481年)であるから、242年史といってよい。
ただし、孔子の門人が哀公15年と16年を追記したので、244年史ともいえよう。
哀公16年が孔子の死去の年である。
したがって、東周時代の前722年から前481年、あるいは前479年までを春秋時代と呼ぶ、というのが正しいような気がするが、魯国の歴史をもって中国全土の諸国を包含するのは偏奇がある、という異論が出たに違いなく、
<魯君ではなく、周王を中心にすべきである>
というのが歴史家の正論であろうから、隠公が生きていたときの周王は平王であったことから、平王の初年を春秋時代の初めとし、哀公のときの周王である敬王の末年を春秋時代の終わりとして、論争を収斂したのであろう。
それゆえ、春秋時代に関心をもった場合、「周王」と「魯君」を頭にいれておくと便利である。
例えば研究書などに「桓五」と書かれてあれば、それは必ず「魯・桓公五年」であり、「周・桓王五年」ではない。



』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 1992/10[1992/09]
『
日本が真の意味で世界に進出しているいま、2つの明確な疑問が湧いてくる。
(1) 日本の世界的な役割とは何なのだろうか(あるいは、何になることなのだろうか)?
(2) 日本はいつになったら経済力に見合った国際的な責任をひきうけるのだろうか?
そしてその責任とはどういうものになるのだろうか?
これは誰もが抱く明確な疑問であるから、最近ではそのことに関する多くの本が出版され-----。
しかし、どちらの問いに対しても満足な答えを出したものはまだいないし、本書の著者にも無理だろう。
なぜだろうか?
その理由は、いかにも明快なようだが、その疑問そのものが間違っているからである。
日本にとっての「世界的役割」などというものはない、のだから、それが何であるかを問うても意味がない。
国家には世界的役割などない。
フランスの世界的役割は何か?
中国のそれは何か?
イギリスのそれは何か?
こうした疑問は(わざわざ提起する者がいればの話だが、そんなことをする者はいない)、日本についての疑問と同じく無意味である。
「国際的責任」についても同じで、そんなものは存在しないし、少なくとも独立したものとしては「存在しない」
それでは、何があるというのだろうか?
そこにあるのは「役割と責任」ではなく、必然的に他国のそれと衝突する行動と利害関係である。
ありのままにいえば、国際関係は、しばしば競合する諸国間の「多様な利害関係の均等と変化」にかかわることだ。
したがって、国家について、またこっかのために発するべき正しい問いは、「長期的にみて、何が国の利益になる」か、ということであり、またどのような行動がその利益にもっともかなうか、その利益を損なわないためには他国との衝突をどうやって避けるべきか、ということなのである。
日本は今後、外の世界が脅威よりも機会と利益をもたらすようにするために、いったい何ができるのか?
日本はどうすれば、「自らの文化とアイデンテイテイと繁栄」を危険にさらすことなく、他国に好かれる国になれるのか?
しかし、これを考える前に、別の疑問がわいてくる。
他の多くの国には問われないのに、「なぜ、日本だけ」そのようなことが問われるのだろうか?
フランス人は、自分たちがしかるべき位置を占めているかどうか、好かれているかどうか、などといったことを気にしてはいない。
だが、日本人は気にしているのだ。
真の課題とは、国際情勢における日本の長期的な国益となるものを見極め、そのような時刻の利益が他国の利益とどう調和するかを見極めることなのだ。
重視すべきは「長期」という点である。
それは本書の基本理念である。
つまり、最後には「合理的利己主義」が勝利をおさめるということだ。
言いかえれば、人間は個人であろうと、会社や市場、あるいは国家の一員としてであろうと、最終的には「筋の通った行動をする」ということである。
それは非常に長い時間がかかることもある。
しかし、最後には「論理が勝つ」場合が多いのだ。
「利己主義の力」を信じるからこそ、筆者は今後四半世紀の世界について、楽観的になれるのである。
』

【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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● 1992/10[1992/09]
『
1980年代後半に工業製品のなかでもっとも付加価値が高かったのは、人工衛星、スーパーコンピュータ、航空機エンジン、ジェット機だったが、どれをとっても日本が先頭に立っているものはない。
1990年代に登場した最新のバイオテクノロジーの領域でも日本は強くない。
アメリカに数年遅れている。
とくに薬品・薬剤の分野では、日本の企業ははヨーロッパにもはるかに引き離されている。
日本が強力なのは、「中程度」の付加価値をもつマス・マーケットを対象としたテクノロジーである。
ビデオカメラ、半導体、高品位カラーテレビ、コンピュータ・デイスプレイ、半導体製造装置、コンピュータ制御工作機などで、1980年代からはそれに高級自動車が加わった。
先にあげた分野の多くでも、日本は2番目か3番目の地位を占めるに過ぎず、高付加価値の分野では、先頭に大きく水をあけられている。
まさに決定的だったのは、日本がソフトウエア開発の面で二歩も三歩も遅れていることだ。
日本はせいぜいのところ「第2位」でしかないのである。
さらに注目すべき点がある。
これまで日本が強かった業界にも、台湾、韓国といったアジアの国々からしだいに新たな供給源が出現していることである。
新製品が大量に発売されるたびに、それがすぐさまアジアで模倣される。
すると、日本が技術革新で得られる利益が限られてくる。
すぐ競争がはじまって、価格を押し下げる結果になる。
アメリカやECと較べたとき、日本の強みは「どこに」あるのか。
技術全般に関して他国をリードしているということだろうか。
そうではない。
そもそも日本はそんな地位についてはいない。
技術革新でないとしたら、いったい日本の産業の強みは何なのだろう?。
その答えとして、まず日本の製品や工程で使われている技術レベルが「平均して高い」という事実をあげなければならない。
言いかえると、最新のテクノロジーを吸収して応用できる企業が、広い範囲にわたって存在し、そうした企業がさまざまな産業で、生産性を改善してきたのである。
日本の教育レベルは世界最高ではない。
しかし、教育の平均的なレベルで考えると、日本は世界でいちばん強い。
日本が技術面でリーダーシップを握ろうとするのは誤りである。
それよりも、日本は技術の平均的なレベルを着実に引き上げることに力をいれるべきだろう。
企業では、それが研究開発の目標になる。
日本では、消費、借金、貯蓄のパターンが少しずつ変化しつつある。
だからといって、経済全体が、良くなるわけでもなく、悪くなるわけでもない。
ただ、変わるだけである。
何であれ経済変数をある程度確実に予測することは「不可能」で3あるし、貯蓄率もその例外ではない。
ただし、かなりの精度で予測できるものに一つに「人口統計」がある。
出生率の変化による影響が労働力におよぶまでには、ざっと20年はかかる。
65歳以上の人間が全人口に占める割合は
1995年には14%、
2000年には16.2%、
2005年には18%、そしてピークを迎える
2020年には23.5%になるという。
こうした数値を見ていて最初に気づくのは、高齢化はかなり長期間にわたる現象だということである。
高齢化は日本経済の動向を決めるうえで、きわめて重要な役割を果たす、と思われる。
老齢人口の増加によって、国全体の貯蓄率は大きく下がるだろう。
国全体の貯蓄率が低下すると、21世紀に入ってからも日本の経常収支が黒字で、多額の資本を輸出しているとは考えにくい。
ここで銘記しておくべき重要なポイントは、老齢人口それ自体が、繁栄を脅かすわけではない、ということである。
引き起こされる変化とは、「労働力とその活用方法」である。
労働力として毎年新しく加わる人口が減るにつれて、日本の労働者の平均年齢は上がっていくだろう。
この現象は、いくつかの点で影響をおよぼす。
第一に、雇用者側は給与の年功序列制度を習性する必要に迫られるだろう。
さもないと労働力のコストがうなぎ上りになってしまう。
第二に、雇用者は労働力に代る資本(つまり機械化)の導入に力を入れることになる。
そして最後に、労働供給の境界にいる人たちの力が大きくなるだろう。
それは多くの場合、女性である。
労働力の不足は、日本人にとって「非常に喜ばしい現象」だということを認識しなければならない。
労動力不足は、失業率が低くて、職を求める人に大きな選択の幅が与えられることを意味する。
心配しなければならないのは、労働力過剰になって失業が増え、賃金が低下することなのである。
人手不足が問題なのは、日本人というよりは、むしろ日本の企業のほうだろう。
日本の企業は労力を節約するための投資をしなければならないのだ。
それに反して、アメリカは移民と高い失業率のおかげで、労働力にはこと欠かず、「省力化投資」をする必要はない。
概して、労働力の不足はそれほど重要な問題ではない。
それは繁栄の産物であって、経済的な困難の原因ではないからだ。
経済が停滞して出業が増えれば、人手不測は自動的に解消されるだろう。
労働力の不足は、経済の拡大を抑制する。
それだけのことである。
』
【忘れぬように、書きとめて:: 2009目次】
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