2009年12月16日水曜日

冥府回廊:後書:杉本苑子


● 1984/11



 だいぶ前に、私は『マダム貞奴』という小説を書きました。
 題名が示す通り、女優の草分けと言われる井上貞奴を主人公にした作品です。
 このとき、もし将来機会が得られたら、福沢桃介を間に挟んで、貞奴とはライバルの関係にあった房子(桃介の妻)の視点から、もう一度、同じ素材をみつめ直してみたいと考えました。
 ところがたまたま昨秋、貞奴をテレビドラマ化したいとの要望がNHKからもちこまれたため、かねての念願を実現すべく「オール読物」誌上に、短期集中連載の形で発表したのがこの『冥府回廊』です。
 単行本にまとめるに当たり、さらに80枚ほど加筆しましたが、つまり貞奴側から書いた『マダム貞奴』と、房子側から書いた『冥府回廊』の二作品が、昭和60年度NHK大河ドラマ『春の波涛』の原作ということになります。

 『冥府回廊』執筆のさいは、大西利平氏の福沢桃介翁伝、宮寺敏雄氏の財界の鬼才福沢桃介の生涯など、桃介研究の定本と評してよいご労作をはじめ、桃介はかくの如し、桃介式、無遠慮に申し上げ候など福沢桃介自身の著述、同じく川上音二郎・貞奴漫遊記、欧米漫遊記などの音二郎自身の著述、福沢諭吉の書簡集、杉浦翠子の兄桃介を悼むの歌、純愛三十年斉藤茂吉の手紙などなど、小説の登場人物みずから筆をとったもの、また比較的新しい著作物では宮岡謙二氏の旅芸人始末書、山口玲子氏の貞奴に関する評伝、あるいは演劇画法はじめ雑誌や新聞、大同製鋼、関西電力、北海道炭鉱汽船株式会社などの社史や出版物、慶応義塾百年史など、個人法人を問わずおびただしい資料の恩恵にあずかりました。

 さらに貞奴の養女川上富司さま、房子のお孫さんの福沢直美さま、-------など、有縁のかたがたから貴重なお話や御教示をたくさん頂戴できたことも、感謝のほかありません。
 ご遺族としては、登場人物の性格設定や扱いなどに、トキにご不満、ご不快もあったろうとお察しいたします。
 しかし、小説というものをよくご理解くださり、お心ひろくお力添えいただけたのは、身に余る仕合せでした。

 上村松皇画伯が、すばらしい白孔雀のお絵の、表紙への流用をこころよく許してくださったのもありがたいことです。









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